2009.8.30

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「開け」

廣石 望

列王記上17,8-16;マルコ福音書7,31-37

I

 福音書にはイエスの「奇跡」がたくさん報告されています。それらを読んで私たちが感じるのは、本当にそんなことがあるのだろうかという疑問です。私たちは日頃から科学的でナチュラルな説明を求めます。奇跡についても同じです。イエスが少しの食べ物で何千人もの人々を養ったと聞くと、じっさいには各人が隠し持っていた食糧を供出したということではないかと考えます。つまり奇跡を本質的には「消去」する方向性です。他方で、奇跡こそがその宗教や教祖さまが本物であることの証明であるという理解が、今でもあります。おそらくそのとき、奇跡はマジックショーに近づきます。つまり奇跡は一方では消去され、他方では濫用されるのです。

 そもそもイエスにおける奇跡は何なのでしょうか。それから私たちにとって重いのは、新約聖書にあるような病気治癒の奇跡が私たちの世界では通常生じないという事実です。このことを前にするとき、聖書やキリスト教はイエスの奇跡について、いったいなお何を語ることができるでしょうか。

 

II

 今日のテキストには聴覚障がいをもつ人が登場します。聴覚障がい者にとって、おそらく最初の困難は、傍目にはその障がいが分からない、その人が障がい者であることに気づかないことから始まるように感じます。つまり声をかけられても、うまく反応できないのです。障がいの度合いも、まったく聞こえない人から、やや聞こえにくいという人までさまざまです。聴覚を失った年齢によって、言語能力にも大きな違いが出るでしょう。一般に聴覚障がい者は、健常者の会話のスピードについてゆくことが困難です。現代日本では「手話」が社会的にも認知されるようになりました。それでも、テレビの手話ニュースを見ていても分かるように、音声言語のすべてを手話に訳すのは、ほぼ不可能でしょう。それでも聴覚障がい者の中には、目で対話相手の唇のかたちを「読む」ことで内容を理解できる人がいます。また発声練習を重ねることで、自分の声は聞こえなくても、相手に聞きとってもらうのに十分なだけ明瞭に発話できる人たちもいます。大学では、講義保障という視点から「ノートテイク」の手法がとられています。講義室で発話されるすべての言葉を、隣に座ったボランティアさんがパソコンと特殊なソフトウェアを使って「文字化」し、画面上に映し出す技術です。

 

III

今日の奇跡物語を見てみましょう。いくつか際立った特徴を指摘します。

まず地域が特定されています。イエスとその一行が「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来た」(31節)というものです。この叙述については、パレスティナ北部のじっさいの地理との関係をめぐって、いろいろな議論があります。しかし福音書が言わんとしていることは明瞭です。すなわちイエスが主として異邦人が居住している諸地域を歴訪してきたということです。そしてこのことは、福音書の読者にとっては、後のキリスト教会による異邦人伝道の先取りです。

次に、治癒される人が完全な受身に描かれていることが目立ちます。彼は行動の主体ではなく、支援者やイエスの行為の対象です。この人が能動形動詞の主語になるのは、治癒プロセスの最後の一文、「はっきり話すことができるようになった」(35節後半)だけです。

さらにこの物語の大きな特徴に、イエスの治癒行為が順を追って丁寧に報告されていることがあります(33-34節)。イエスは障がい者を群集から分離した後で、自分の指を彼の両耳に挿しいれます。これは耳につまった栓を抜くという意味でしょうか。次に自分のつばを、彼の口に入れます。つばで湿らせて、舌のもつれを解くという意味かもしれません。続いてイエスは「天を見上げる」。これはおそらく祈りです。そして「深く息をつく」とは、カリスマ的な奇跡行為者の内面的な高揚の表現だという説があります。そしてイエスは「エッファタ!」と発声します。これはアブラカタブラのような意味不明な呪文のように見えるかもしれませんが、じっさいにはイエスの母語であるアラム語で「開け!」という意味の通常の言葉です。福音書記者も、アラム語を解さない読者のために、そう解説しています。――ここに描かれているのは、専門知識と技術をもつ医者とは異なる、民間の奇跡行為者としてのイエスの姿です。じっさいの手順はほとんど魔術を思わせます。だからでしょうか、マルコによる福音書を資料として用いて、それぞれの福音書を執筆したマタイとルカは、二人ともこの物語をスキップしています。

最後に、治癒奇跡に接した人々の反応が言及されています。口止めされても、人々はますます言い広めた(原語は「宣べ伝えた」)というコメントです(36節)。そのとき人々が言ったとされる言葉(37節)は、イザヤ書35,5-6「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」を受けた表現です。イザヤ書ではこの言葉は、「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」という有名な言葉で始まる、イスラエルの回復を歌う希望の預言の一節です。

 

IV

以上のような奇跡物語の特徴から、およそ以下のことが分かります。

まず、イエスは特定のエリート集団だけがもっている知識や技能を使いません。彼はただの民間人として奇跡を行います。またそのとき彼は、障がい者の「患部」に直接触っています。神による奇跡と、悪霊ないしイカサマ師による魔術との区別など、おかまいなしといった感じです。イエスは知識や技術を媒介とせず、体当たりで相手にぶつかってゆく治癒者です。

次に見逃せないのが、イエスの奇跡のまわりを身体障がい者をサポートする人々の善意が取り囲んでいることです。人々は、その人をイエスのもとに連れてきて、手を置いてもらえるよう懇願します(32節)。そして奇跡が生じたことに度肝を抜かれながらも、そのことをとても喜んでいます(37節)。

イエスにおける奇跡は、〈神がこの世界の苦しみを放置しない〉こと、つまり「神の王国」の到来のしるしです。それは古の預言者が「荒野に花が咲き乱れる」と歌った希望の成就です。つまり彼の奇跡は、たんに病気であった部位が正常値に戻るだけのものではないのです。私たちは〈本当にそんなことがあるのか〉と問いますが、新約聖書の奇跡物語は、むしろ〈そのできごとは何を意味するか〉という問いに焦点を合わせています。

 

V

「エッファタ!」――そうイエスは発声しました。この言葉で大切なのは、これが二人称単数の受動命令法であることです。つまりたんに「開け!」というのではなく、「あなたは開かれよ!」という意味です。

この人は障がいのゆえに〈閉じられて〉いたのでしょう。35節のギリシア語原文をそのまま訳すと、「すると[直ちに]彼の聴覚は開かれた。そして彼の舌の縛りが解かれた。すなわち彼はまっとうに喋ったのであった」となります。

いったい彼は何を話したのでしょうか。「耳の聞こえない」「舌の回らない(原語では「苦労して発話する」)とありますが(32節)、この人はまったく聞こえなかったのでしょうか、それともむしろ難聴であったために、うまく発声できなかったのでしょうか。治ったというのは内耳にいたるセンサー部分の障がいが治ったということなのか、それとも内耳から脳にいたる聴神経の部分すらも治癒されたということなのでしょうか――問いは尽きませんが、よく分かりません。大切なのは、この人が「まっとうに喋る」ことで〈開かれた〉ということ、つまり文字でなく音声によるコミュニケーションが圧倒的に重要であった古代社会にあって、この人の尊厳が社会的にも回復されたことです。

 

VI

 イエスの奇跡が、たんなる病気や障がいの治癒でないことは分かりした。それは「神の王国」の到来、古の預言の成就、弱者の尊厳が回復されるできごとでした。では、私たちの世界でそうした奇跡が基本的には生じないとき、私たちにとってイエスの奇跡とは何でしょうか。じっさいに障がいをもつ方たちにとって、新約聖書にたくさんの治癒奇跡物語があることは、もしかしたら悲しいことなのかもしれません――〈でも私には、そんな奇跡は起こらない〉。さらに、いわゆる健常者にとって、聖書は何を言うことができるでしょうか。

 そのことを考える手がかりとして、先に指摘した支援者たちの存在に注目したいと思います。地域共同体でいっしょに暮らす仲間として、彼らは聴覚障がいをもつ友人をイエスのもとに連れてきて、彼に手をおいてくれるようしきりに願ったのでした。

 以前にもお話したことがありますが、学生たちとインドに研修旅行に行くたびに、私たち一行は「デフ・チャーチ」を訪問します。そこには近隣の諸地域から、デフの方々が礼拝に集います。礼拝は、暮らしに役立つ情報交換の場でもあります。参加者はキリスト教徒だけではありません。ヒンドゥー教徒やイスラム教徒の人もいます。私たちとのコミュニケーションは、〈マラヤラム語手話→マラヤラム語音声化→英語通訳→日本語通訳〉という回路を往復します。ほとんど「舌が回らない」状況と言ってよいかもしれません。礼拝の中で、学生たちは日本の歌に手話をつけたものを披露します。そして大きな模造紙に英語かマラヤラム語に訳した歌詞を見せて、その意味を説明し、それに日本語の手話の動作をゆっくりシンクロさせるのです。すると会衆の方たちは、その意味を理解して日本語の手話でいっしょに歌ってくださいます。私は手話を披露する学生たちの前にかがみこんで、模造紙を掲げもつ役を引き受けました。その陰から、ちらちらと会衆を見守っていたのですが、ふと振り返ると、学生たちはみんな、ほっぺたをびしょびしょに濡らして泣いていました。びっくりしました。後から尋ねると、ちょっとボランティア活動にでも行こうかくらいの気持ちで来ただけだったのに、現地の人たちがまったく心を開いて自分たちを受け入れてくれたことに驚いて、感動してしまったのだそうです。今にして思えば、開かれたのは私たち健常者の方だったような気がします。

「エッファタ/あなたは開かれよ!」――これは、〈あなたの命が世界との交流の中にあるように〉という創造者なる神の意志を宣言する言葉なのです。



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