2008.9.7

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「確信を捨てない」

村上 伸

ハバクク書2,1-4;へブライ10,35-39

 今日の説教テキストは、「だから、自分の確信を捨ててはいけません」(35節)という言葉で始まっている。「だから」と言うのは、その直前の32-34節の言葉を受けているからである。すなわち、「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」

つまり、信仰に入ったばかりの頃のあなたがたにも、さまざまな苦難の中でそれに耐えたという経験があるではないか。「だから」、その初心を忘れないようにしなさい。あなたがたの確信を捨ててはいけません。

 この手紙は、第1世紀の終わりごろ、ローマ帝国内で迫害されながらも信仰生活を送っていた異邦人キリスト者に宛てて書かれたと考えられている。彼らが遭った迫害は、具体的にはどのようなものだったのだろうか?

 先ず、「あざけられ、苦しめられた」とある。これは、キリスト教の信仰がまだ社会で認知されていなかった頃の様子であろう。次に、「見せ物にされた」。これは、もしかしたら、あのネロ皇帝の下で実際に起こったことを指しているのかもしれない。コロッセウムのような公の場所でキリスト者同士を剣で戦わせるとか、ライオンの餌食にするというような。さらに、「捕らえられる」(投獄)とか、「財産を奪われる」(財産没収)といったことも頻繁に起こったであろう。

 似たようなことは、日本でも徳川時代の「キリシタン迫害」に際してしばしば見られたが、現代では先ず考えられない。「日本国憲法」は思想・信教の自由を保証しているからである。しかし、神を信じて生きるためには忍耐が必要だという事情は、今でも根本的には変わらない。

 私たちの世界を見ると、政治や経済の中で、そして、今は教育の現場でも、嘘・偽りや賄賂が横行している。いつになったら、この世界に「公平と正義」が実現するのだろうか。あるいは、この世界では「力こそ正義である」という主張が相変わらず説得力を持っていて戦争が絶えない。核兵器やクラスター爆弾を廃絶せよというごく当たり前の、むしろ控えめな要求すら通らない。いつになったら、真の平和が来るのだろうか。そして、何よりも、我々自身の内にある弱さと罪の問題がある。「いつになったら/人を憎めなくなるかしら/私と人々の間が美しくなりきるかしら」(八木重吉)。しかも、こうした問題を抱えた世にあって、教会の語る言葉は多くの場合、紋切り型の宣教に留まっていて、力を持たない。

 このようなことを考えるとき、「いつまでこうなのか?」という気持ちにさせられる。旧約の詩人が、「いつまで…いつまで?」と繰り返したように。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか」(詩編13,2-3節)。「いつまでこんなことに耐えなければならないのか?」これは私たちの心の中にある深刻な問いである。

 だが、ヘブライ書の著者は、そのような状況の中にあっても、「自分の確信を捨ててはいけない」と戒め、「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」(36節)と教える。忍耐(ヒュポモネー)。我慢して持ちこたえること。あるいは、神の約束の実現を待つこと。これは、現代世界に生きる私たちにとって、最も重要な教訓ではないだろうか。

 序でに言えば、37-38節は、先ほど朗読した旧約聖書・ハバクク書2章2節以下の引用である。「幻を書き記せ。…もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」。主なる神が預言者ハバククに答えて語られた、この慰め深い言葉を心に刻みたい。

 忍耐を可能にするものは、約束である。数年前、私はある外科手術を受けたことがあった。手術そのものは麻酔が効いているから苦しくはなかったが、その後、3週間の入院生活の中で、毎日一度繰り返されるガーゼ交換が大変辛かった。思わず呻くほど痛いのだ。「あと何日、こんな苦痛に耐えなければならないのか?」と私は心の中で呟いていた。だが、その中で、毎日の処置が終わる度に自分に言い聞かせていた言葉がある。看護師さんはそれを聞いて笑ったが、それは、「やれやれ、今日の分はこれで終わり!」というのである。この苦痛は永遠に続くわけではない。むろん、今日の苦しみが終わっても明日の分が待っている。しかし、神はどんな人の体にも自然治癒力を与えられたのだから、この傷もやがてふさがり、かさぶたができ、そして新しい皮膚が再生されるだろう。そして遂には、「さあ、これで終わりですよ」と言われる日が来るだろう。私は、そのように約束を信じて、苦痛に耐えていた。

 忍耐を可能にするものは、約束である。イエスを十字架の苦しみから解放して復活の命を与えられた神は、いつの日にか、あなたのもとにも来て、苦しんでいるあなたを救われる。この約束を信じる時に、人は初めて忍耐することができる。約束を信じなければ、忍耐することも不可能なのである。



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