2008.6.22

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「神の愛とキリストの忍耐」

村上 伸

イザヤ書25,4-5;テサロニケ 二 3,1-5

 パウロは第二次宣教旅行の途中、多分紀元50年頃と考えられるが、テサロニケに立ち寄った。この町はローマ帝国マケドニア州の首都で、地方総督府があり、商業も大いに栄えた港町であった。使徒言行録17章によると、パウロはこの町で、「三回の安息日にわたって」2節)伝道した。ギリシャ人で彼の言うことを信じた者は相当数いたが、その町で暮らすユダヤ人の中にはそれを快く思わない人もいて、その人たちは「広場にたむろしているならず者を何人か抱きこんで暴動を起こし」同5節)、パウロとその一行を町から追い出してしまった。

 だから、パウロはこの町からはあまり良い印象を受けなかったであろう。しかし教会に対しては、第一の手紙にも書いているように、深く感謝していた。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」テサロニケ 一 1章2節)。殆んど同じ言葉が、第二の手紙にも出て来る(テサロニケ 二 1章3節)。それだけでなく、パウロはテサロニケの信徒たちのことを「誇りに思う」同4節)と言い、「神の国にふさわしい者」同5節)と賞賛している。手紙を2通書いたということも、パウロとテサロニケの信徒たちの間に良好な関係があったことを物語っている。

 さて、私は今日の礼拝では、「祈り」について述べたいと思う。パウロは、テサロニケの信徒たちのために絶えず祈っていた。これは当然だが、その祈りは一方通行のようなものではなく、交流するものでなければならない。だから、彼は信徒たちに対しても、「わたしたちのために祈ってください」3章1節)と願い求めたのである。

 また、祈りは単に自分ひとりのための個人的な願い事ではない。人はしばしば、家内安全・商売繁盛・無病息災を祈る。あるいは、自然災害から守られるように祈る。その場合、むろん、自分だけのために祈るわけではないが、ややもすれば視野が狭くなる傾向がある。先ず自分の家族や交友関係、自分の村、せいぜい自分の国のことを考えて祈る。それにも意味がないわけではないが、聖書で誰かが祈るとき、その視野は広く大きい。このことに注目しなければならない。

 パウロは今日のテキストを締めくくって、「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」5節)と言っているが、これも大きな祈りだ。「神の愛」とは、造られた世界の全体に対する神の愛のことであり、「キリストの忍耐」とは、神に造られた世界全体の救いのために十字架の苦しみに耐えた彼の忍耐を意味する。祈りは、この広く大きい視野を持っていなければならない。

 アッシジのフランチェスコは、「私をあなた(神)の平和の道具としてお用い下さい。憎しみのある所に愛を、いさかいのある所に赦しを、分裂のある所に一致を、疑いのある所に信頼を、誤りのある所に真理を、絶望のある所に希望を、闇に光を、悲しみのある所に喜びをもたらす者として下さい」と祈った。これも視野の広大な祈りである。造られた世界全体に対する神の愛を信じていなければこうは祈れない。

 しかし同時に、私たちは、神が一人ひとりのことを深く心に留めておられることを信じ、その神に向かって祈る。第二イザヤは、慰めに満ちた言葉を語った。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」イザヤ書43章1節)。

 鈴木秀子さんは『死に行く者からの言葉』という本の中に、ある老人ホームにいた不思議な老人の話を書いている。背が高くて品が良く、歩く姿も堂々としていて、「大会社の社長のような」風格を漂わせているが、アルツハイマー病が進んで自分がどこの誰かも分からない。最初保護されたときは山の中でただうずくまっていたので、皆には単に「山のおじいさん」と呼ばれている。敏感なところがあって、「物」のように扱われるとひどく機嫌が悪いが、「愛」には的確に反応して優しい表情になる。

 段々と体が弱って、やがて死を迎えるのだが、ある時ベッドの上で突然何かを語り始めた。繰り返している内に、言葉は次第に明確な文体を取り始め、声もしっかりしてきて、よく聞くと、それは一つの詩なのであった。

「わが名をよびてたまはれ いとけなき日の呼び名もて わが名をよびてたまはれ あはれいまひとたび わがいとけなき日の名を よびてたまはれ 風のふく日のとほくより わが名をよびてたまはれ 庭のかたへに茶の花のさきのこる日の ちらちらと雪のふる日のとほくより わが名をよびてたまはれ 幼き日 母のよびたまいしわが名もて われをよびてたまはれ」 (一部を省略した)。

 後に鈴木さんは、これが三好達治の詩であることに気づくのだが、これは自分の名を失ってしまった「山のおじいさん」の、実存の根源からの祈りではなかっただろうか。私の名前を知っている人はいないか? 「いとけなき日の呼び名」で私を呼んでくれる人がどこかにいないか? 「幼き日 母の呼びたまいしわが名もて」私を呼んでくれる人がどこかにいないか?

 預言者イザヤの言葉に、もう一度目を留めたい。「恐れるな、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。遥かに高い天に、私の名を呼んで下さる神がいる、と預言者は言うのである。だからこそ、私たちは祈るのである。ルターは言ったではないか。「たとえ、言葉にもならない呻きでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」。

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