2007・5・6

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「柔和で謙遜なイエス」

村上 伸

哀歌3,25-33;マタイ福音書11,25-30

主イエスは、「天地の主は…これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」 (25節)と言われた。先ずこの言葉に注目したい。

「知恵ある者」・「賢い者」とは、前後の文脈から見て、ファリサイ派の律法学者を指すと考えられる。イエスは後にこれらの律法学者たちを、「あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ウイキョウの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」 (マタイ23章23節)と厳しく批判している。彼らは律法の専門家だから、煩瑣な知識は山のように蓄えているが、肝心の「正義・慈悲・誠実」を無視している、言い換えれば「愛」を知らない、というのである。預言者が、「賢者の知恵は滅びる」イザヤ書29章14節)と言ったのは本当だ。

それに反して幼子は知識を持たない。しかし、最も肝心のこと、つまり、「愛」を知っている。「知っている」と言うよりも、その中で「生きて」いるのである。愛がなければ人は一刻も生きられないという真理を、そして、周りの人のの愛に包まれる時に本当の平安があるということを、幼子は「証しして」いる。その平安が奪われると、赤ん坊は泣く。これを奪われたら生きて行けないと訴えるように、大声で泣く。

八木重吉の詩に、次のようなものがある。「さて/あかんぼは/なぜに あん あん あん あん なくんだろうか/ほんとに/うるせいよ/あん あん あん あん/あん あん あん あん/うるさかないよ/うるさかないよ/よんでるんだよ/かみさまをよんでるんだよ/みんなもよびな/あんなに しつこくよびな」。

幼い赤ん坊は経験も知識も持たないが、「愛」が人生に不可欠であることを本能的に知っており、これを取り去らないで欲しいと神に呼びかける術を知っている。このことにイエスは心を打たれるのである。「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」 (26節)。

さて、 27節は飛ばして、28節について考えたい。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

これは有名な言葉だ。教会の入り口の看板にこの聖句が書いてあることも多い。日常生活のさまざまな問題。職場の人間関係の煩わしさ。それにうんざりし、人生に疲れてしまった人は、イエス様のところへいらっしゃい。

だが、ここで使われている「疲れ」とか「重荷」という言葉は、もともと、ファリサイ派の律法学者たちが民衆に押しつけていた煩瑣で原理主義的な律法解釈を意味していた、と言われる。例えば、「安息日」には仕事を休むようにと命じた第4戒は、本来、人に休息の喜びを与え、神と共にある祝福を約束するものであった。ジュネーブの宗教改革者カルヴァンが「我々のうちに主がみ業を行われるために、我々自身のもろもろの業をやめる」と言ったように、それは積極的な意味を持っていた。それなのに、律法学者たちは杓子定規に「労働禁止の命令」と解釈し、その適用範囲を恣意的に拡大し、遂には病気で苦しむ人を助ける医療行為さえ禁じたのである。このような原理主義的な律法解釈がどんなに民衆を苦しめたか。イエスが、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本も貸そうとはしない」 (23章4節)、と言われたのは当然である。

主イエスは、このように「原理主義的に」解釈された律法から、私たちを解放したのである。彼にとっては、目の前で苦しんでいる人のいのちは、律法の文言よりも大切であった。その人を助けるためだったら、掟に違反したという理由で世間から非難される結果になろうとも、敢えて助けの手を伸ばした。

こうした世間の「しきたり」にうんざりしている人、喜びの無い生活に疲れ果てた人、耐え難い重荷を負わされて苦しむ人は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう!これは、解放の宣言なのである。

但し、イエスによる「解放」は、あらゆる束縛を脱して自分の好き勝手にすること、いわば「せいせいする」ことを意味しない。イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」 (29節)と言われる。「軛」がなくなることはないのである。

『広辞苑』によると、「軛」とは「車の長柄の端につけて、牛馬の首にかける横木。比喩的に、自由を束縛するもの」である。人間として生きる以上、「軛」がなくなるということはない。学ぶべき模範も存在する。イエスはこのことを認めた上で、こう言われた。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」 (30節)。

ここで「負いやすい」と訳されているギリシャ語 (クレーストス)は、物事に関しては「良い」とか「楽しい」、食べ物に関しては「美味しい」、人物に関しては「親切な」を意味する非常にポジティブな言葉である。イエスの「軛」は、人をただ苦しめるためのものではない。それは「良い」軛であり、祝福を約束する「親切な」軛である。

それは、具体的には何か ?イエスが弟子たちに与えた「新しい掟」のことではないだろうか。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)。

この戒めに従うことは、それほど容易なことではないかもしれない。それは「軛」に違いない。だが、この「軛」を負って生きるとき、私たちの魂は本当の「休み」と、深い「安らぎ」 (29節) に導かれる。これが、柔和で謙遜な主イエスの約束なのである。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。



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