2007・4・22

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「よい羊飼い」

廣石 望

詩編23編;ヨハネ福音書10,11-16;27-30

I

 現在、地方選挙が行われています。私たちの社会は、ありがたいことに自治体の長や議会の構成員たちを投票で選ぶという民主主義的なシステムを持っています。もちろん多数決という方法にも欠点はあります。一番分かりやすい欠点は、たくさんの〈死に票〉が出ることです。つまり結果的に少数派となった人々の意見は、その後の行政や議会の運営に反映されることが困難です。もう一つの欠点は、せっかく選ばれた指導者が、支持者にとっても期待通りの働きをするかどうか分からないことです。指導者は自分に投票しなかった人々に対してもよい働きをすべきですが、現実にはそれは期待薄です。期待外れの働きしかしない人も、任期中はその座に居座り続けるのが通例です。

 旧約聖書の伝統では、王その他の民族の指導者がしばしば「羊飼い」と形容されます。「私はよい羊飼いである」という今日の聖句のイエスの言葉も、その伝統の中にあります。本当によい指導者とはどんな人なのでしょうか。イエスが私たちの「羊飼い」であるとは、どういう意味なのでしょうか


II

 「私はよい羊飼いである」(11節)という言葉は、〈イエスよ、あなたは私たちにとって何者なのですか〉という問いに答えているようです。しかしギリシア語の原文は、「この私こそがよい羊飼である」と訳すことも可能です。その場合、〈いったい私たちの本当の羊飼いはどこにいるのですか〉という問いに、イエスが〈ここにいる私がそれだ〉と答えていることになります。日本語とちがってギリシア語の場合、助詞「は」と「が」の違いが文法的に表示されませんので、判断は文脈を見るほかありません。

 直前の文脈には「羊飼い」について、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」(10,1-2)という発言が現われます。偽者の羊飼いと本物の羊飼いの区別が問題になっているようです。偽者の羊飼いについては、私たちの箇所でも、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(12節)とあります。

 門でないところから侵入してくる「盗人」や「強盗」、あるいは「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」日雇いの羊飼いといった言葉遣いを見ると、こうしたイエスの言葉を生み出した共同体は、外部から侵入してくる者たちに揺さぶられていたのかも知れません。同時に、共同体の内部でも分裂が生じかねない状況が予想できます。指導者と考えられていた人が「羊を置き去りにして逃げる」という危うい可能性が想定されているのですから。そのとき共同体の内部では、〈いったい私たちの本当の羊飼いはどこにいるのですか〉という問いが切実なものになるでしょう。

 そのようなわけで、「私はよい羊飼いである」と訳されているイエスの言葉を、「私がよい羊飼いである」と訳すことは十分に可能です。この言葉を福音書の主人公イエスの口に託した人は、〈私たちの本当の指導者は教会の中のあの人でもこの人でもない。それは十字架に死んで復活し、いまは天の父のもとにいるイエスその人だ〉と信じたのです。

 よい羊飼いとそうでない羊飼いの違いは、前者が自分の所有である「羊のために命を棄てる」のに対して、後者は雇われ羊飼いであって、いざとなったら「逃げる」という言い方で対比されています。「命を棄てる」と訳されている箇所は直訳すると「魂を置く」ですから、「命/魂を賭ける」と訳すことも可能です。所有者である羊飼いは羊たちに対して「命」の結びつきを持っているが、雇われただけの羊飼いは危険が迫ると、我が身かわいさに保身に走り、羊たちが外部からの侵入者に食い物にされても一向に気にしないというわけです。

 イラクでは毎日、爆弾テロで罪のない一般民衆が次々に殺戮されています。日本では選挙期間中に現職の長崎市長が至近距離から打たれて死亡しました。アメリカでは大学生が仲間たちに拳銃を乱射して、あげくのはてに自殺するという事件が起こりました。とりわけアメリカによるイラク攻撃をイギリスと並んでまっさきに支持し、復興支援の名の下に軍隊を派遣した私たちの国の指導者たちは、イラクの一般民衆の目にはどのように映るでしょうか。「狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(12-13節)というイエスの言葉は、ひとつの危うい可能性を示唆します。


III

 「私がよい羊飼いである。この私こそが私の羊たちを知っており、また私の羊たちこそが私を知っている」(14節)――ここでは「知る」という動詞で、イエスとヨハネ共同体の成員たちの関係が、所有という外的な関係から一歩進んで、内側から叙述されています。

 旧約聖書以来「知る」という動詞は、たんに誰かについて情報として知る、名前を知っているという以上の、身体的な関係を含めた全人格的な関係を表現します。そこには自分という存在を伝えること、愛情を与えたり受けとったりすることが含まれます。ここで言われているイエスと信仰者の間の人格的な交流関係は、単純に水平的な相互関係ではありません。この関係の始まりはまずイエスが私たちを知ったことに、彼が私たちのために「命を賭けた」ことにあります。イエスが私たちとの関係に自らを開いた結果、信仰者にとっても彼との交流関係に入ってゆくことが可能になりました。

 しかもこの「知り/知られる」という関係の背後には、もういちだん深い「知り/知られる」関係が隠されていると考えられています。「それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」(15節)とあるとおりです。神がイエスを知っていること、つまりイエスが神の子であることは本来、神の神秘に属することがらです。このことを私たち人間が知るのは、イエスとの交流の中に命の創造主なる神を私たちが感じるからに他なりません。


IV

 「私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。

 イエスの父である神へのまなざしは、内外の危機にさらされた共同体をその外部に向けて開き、未来への展望を与えます。「この囲いの中に入っていない他の羊たち」とは、明らかにいまだヨハネ教会に属さない、しかしまことの羊飼いであるイエスに属するはずの者たちです。多くの研究者が、この発言の背後に異邦人伝道があるだろうと考えています。いずれにせよ自分たちのグループの外側に、雇われ羊飼いでも狼でも盗人でもない、イエスの声を聞き分ける羊たちがいるという認識は、この教会が伝道を諦めていないことを示唆します。この教会は自らを外界に対して閉ざし、バリケードをはって立て篭もろうとはしていません。

 「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と訳されている箇所は、原文ではもっと印象的です。直訳すると「そしてこうなるであろう、すなわち一つの群れ、一人の羊飼い」。ここにあるのは未来への夢です。より大きな統合性への希望です。私たちは通常、異分子を共同体の中から排除することで危機を克服しようとします。教会は、たとえば指導部の体制を強化することによって、教会公認の教理や信仰告白を広めることによって、あるいは倫理的な振舞の強化を通して、自らの統一性を確保しようとしてきました。それはすべてありうる方策なのでしょうけれど、ヨハネのイエスはもっと独自のやり方をします。ここでは「イエスの声を聞き分ける」ことが唯一の基準です。つまり統一性は聞くことを通して与えられると考えられています。礼拝とは、自分から自分に向かって言うことのできない言葉、すなわち「私がよい羊飼いである。私は君たちのために命を賭けるのだ」という言葉をイエスから言ってもらうための空間です。この呼びかけを受けとる者たちが、共同体になるのです。


V

 「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない」(27-28節)。

 イエスとのつながりは、無限の命のつながりです。少し考えてみれば分かるように、命とは本来つながりそのものなのです。そしてイエスの言葉には喜びが溢れています。そこには信頼と希望、そして歌が感じられます。

 イエスがもつ大きな権能は、父なる神に対する彼の関係にその根拠があります。「私の父が私に下さったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである」(29-30節)。イエスに属する者たちに対して、彼の父なる神も所有権を持ちます。そしてこの父は、すべてのものよりも偉大な存在です。ですから、この父に属する者たちを奪いとることのできる者はいない。イエスにおいて神が働いているという意味で、神とイエスはひとつです。神とイエスがひとつであるとは、神を構成する物質とイエスの身体を構成する物質とは同一物質であるという意味ではありません。そうではなくイエスという人格を通して、その中で働いているのは純粋に神であるという意味です。「一つ」とは働きにおける統一性を意味します。


VI

 今年のイースターフェスタで、私たちは教会学校の子どもたちが作ったビオ・マーマレードジャムを販売し、その利益を私たちの教会に籍を置いておられる宣教師デビィ・ジュリアンさんが働いておられる「難民・移住労働者問題キリスト教連絡会」(通称「難キ連」)に寄付しました。 「難キ連」のパンフレットに、いわゆる不法労働に関する小さな解説文があります。それによると日本には労働基準法があり、この法律は労働者を国籍で差別してはならないと規定しているそうです。つまり仮に在留資格がなくても「働く」ことに何の問題もありません。しかし他方で入管法(出入国管理及び難民認定法)は、そもそも今の時代のように労働力が国境を越えて動く状況を想定していない時代のものなので、ただ毎日働いて故郷にお金を送っている間に、うっかりするとヴィザが切れて「不法」滞在者になってしまうのだそうです。パンフレットには「教会はどうしたらいいのですか?」という質問に対する答えとして、「出かけていって問題を見てください」という回答が記されています。

 「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私(/父)の手から奪うことはできない」(28節、29節)――私たちは復活の主イエスを信じるでしょうか。ならば「私と父とは一つである」であるという言葉、そして「一つの群れ、一人の羊飼い」という言葉も真剣に受け止めようではありませんか。



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