2007・4・8

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「空虚な墓」

村上 伸

イザヤ書35,1-4;マルコ福音書16,1-8

 十字架につけられて死んだイエスが三日目の朝早く復活した、と聖書は伝えている。死んだ人間が復活するとはどういうことだろうか? 多くの現代人は、そんなことは作り話だと言って信じない。あるいは興味本位に、ミステリー仕立ての小説や映画の題材にしたりする。最近の流行である。

 しかし、私たちは、今朝、このことについて「まじめに」(!)考えたい。

 使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙一』15章においてイエスの復活という主題についてかなり詳しく論じているが、その中に次のようなくだりがある。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れた」(3-5節)。これは簡潔な形でまとめられた復活伝承であって、パウロ自身も「受けた」(3節)と言っているところを見ると、最も古い層のものだと考えられる。この最古の伝承には、素っ気なく「復活した」とか「現れた」とか書いてあるだけで、イエスの亡骸がまたムクムク動き出したというようなたぐいの叙述は一切ない。

 これと並んで古いのが、今日の箇所、『マルコ福音書』16章1-8節である。ここでも、「あの方は復活なさって、ここ(墓)にはおられない」(6節)と言われているだけで、復活について理性的に説明しようというような意図は全く見られない。

 どうしてこうも「素っ気ない」のだろうか? 恐らく、これは「信じる」ほかはない事柄だということを示しているのではないか。イエスの死後、弟子たちの生き方を根底から揺さぶる「何か」が起こった。それを弟子たちは信じた、ということだろう。

 その「何か」とは、臨死状態からの「蘇生」などではない。イエスは完全に死んで、既に過去のものになったと思われていた。アリマタヤのヨセフという人物が、イエスの完全な死を確認し、それから墓に納めて大きな石で塞いだ。人が死んで棺に納められた後、24時間は棺の蓋に釘を打ってはならないと言われているが、女の弟子たちが亡骸の腐敗を防ぐために「油を塗りに」(1節)行ったのは三日目だった。

 ところが、墓は空っぽだった。そして、そこにいた白い衣を着た若者が、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と彼女たちに告げたという。イエスは死んで、墓にしか居場所がないものになってしまったのではない。今も生きている。それも、単に「思い出の中に」生きているのではない。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)。つまり、将来へ向かって進んでいる、というのである。

 弟子たちより先にガリラヤに行く。何のためか? そこで彼の本来の使命を継続するためである。そして、弟子たちはその使命を共に担うために招かれる。「そこでお目にかかれる」というのは、そういう意味であろう。

 ガリラヤは、イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)という彼の中心的なメッセージを語った所である。出会う一人ひとりの人、特に最も弱い立場にある人を心から慈しみ、心と身体を病む多くの人を癒やした所である。そして、弟子たちに暴力による報復を禁じ、「敵を愛しなさい」と教え、真の平和(シャローム)を約束された所である。要するに、この世界である。 イエスは死んだが、彼が生と死をかけて明らかにした真実は決して過去のものになりはしない。彼は、「私は再びガリラヤ(この世界の真っ只中)へ行き、愛と平和の業を続ける、お前たちも一緒に来て、私と共に生きなさい」と弟子たちに呼びかけているのである。その呼びかけは時と共に衰えるどころではなく、日々力を増した。それが、弟子たちにとっては否定することの出来ない現実(リアリティー)であった。このリアリティーを、弟子たちは「主は復活した」と言い表すほかなかったのである。

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