2006・9・24

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「平和と安全」

廣石 望

エゼキエル書13,8-16;テサロニケ第一 5,1-10

I

2001年9月11日の米国同時多発テロから5年が過ぎました。あの事件以降、米国主導で行われた「テロとの戦争」が、世界をより平和で安全なものにしたかどうかをめぐっては、意見が分かれています。何れにせよ「安全」という言葉は、「平和」という言葉と並んで、あるいはそれ以上に、私たちの時代のキーワードのひとつになりました。

先週、私たちは「この世に生きて働く教会――現代の諸問題と代々木上原教会の未来」という総合主題のもとで、教会カンファレンスを行いました。三つの個別テーマに分けて、それぞれに話し合いの時を持ちましたが、そこで話し合われたことを「平和と安全」という視点から見通すことも可能だと思います。

「憲法と安全保障」をめぐる話し合いでは、国家のないし人間の安全保障について、どの方法が望ましく、そのときに憲法9条をどのように扱うべきなのか、という問いが中心にありました。「環境問題」について言えば、21世紀に人類は破滅への道を進むのか、それとも地球と共存してゆく、持続可能な循環型社会へと転換を遂げることができるのか、という問いかけがありました。そして「子どもたちの未来」のテーマについては、競争が過熱化し、どんどん流動化が進む世の中で、また一部の人だけが頭脳の役割を、他方でその他おおぜいの人たちは手足の役割を担うような社会で、いろいろな問題に直面する子どもたちと親たちを、教会と教会学校はどうやって支えてゆけるのか、という問いかけが中心にありました。

これらの問題提起の根底には、私たちが抱え込んでいる、ある大きな矛盾が横たわっているように感じます。それは、「私」とその私を守る「私たち」だけの身の安全を図っても、自分たちの快適さを中心に据えた平和と繁栄を求めても、あるいは私とその仲間だけが「勝ち組」になることを目指しても、結果的にはそのこと自体が、社会全体と子どもたちにとって、安心で豊かな未来を閉ざしてしまう危険を含んでいる、という矛盾です。安全を求めても、安心が得られない。平和を求めているのに、平安が得られないという悪循環です。

どうすれば、この矛盾から抜け出すことができるでしょうか。話し合いの中で、いくつかの大切な示唆を得ることができました。「安全保障」に関して、次のような発言がありました。自分を守る方法には二つあり、そのひとつは自分を強くすること、そしてもうひとつは周囲とよい関係を結ぶことである。前者がやがて行きづまる一方で、後者こそが未来につながる、という指摘です。「環境問題」については、人類は、生きとし生けるものすべてに対して、決して放棄することの許されない大きな責任を負っている、という認識が共有されました。さらに「子どもたちの未来」については、他人を押しのけて勝つことに先立って、愛され大切にされることを経験できる場を提供すること、また国籍の違いや障がいの有無を含む「違い」について、オープンに交流できる場をつくることの重要性が指摘されました。――カンファレンスの話し合いに参加されなかった方々とも、こうした貴重な認識を共有し、深めてゆきたいと思います。

II

さて新約聖書に、「平和と安全」が批判的に言及される箇所があります。さきほど朗読した、「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う」とある箇所です(1テサロニケ5,3)。「無事だ。安全だ」と訳されている箇所が、原語では「平和と安全」です。ラテン語訳聖書では「pax et securitas」。そのまま英語で「ピース&セキュリティ」と訳せます。

テキストの文脈は、世の終わりと最後の審判です。「平和と安全」という表現は、目前に迫った危機をそれと認識しようとしない人々、現実を無視したがる人々の合言葉のように見えます。

古代ユダヤ教の黙示思想では、あとどのくらいで大いなる破壊である終末の時が到来するのかを、その前兆を読みとることによって計算することが盛んに試みられました。その伝統を踏まえたうえでパウロは、しかし、終末が「いつ来るのか」という問いには答えず、むしろそれが「どのように来るのか」について答えます。

「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」(2節)。

これは、福音書に伝えられたイエスの言葉を受けた発言です。次のようなイエスの言葉が伝えられています。

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24,42-44ルカ12,39も参照)

神の到来を「泥棒」の襲来になぞらえる、この奇抜な表現は、おそらくイエス自身の言葉遣いにさかのぼるでしょう。世の終わりは神がもたらす。そして神は、「泥棒のように」突然に来る。人は神の到来を測定することで、身の安全を図ろうとしても無駄である。神の自由を人は制限できない、という洞察がそこにあります。

この洞察は、私たちが自分中心に身の安全を達成しようと努力しても、かえって自滅の道に進みかねない、という私たちの認識に通じるところがあります。軍事力に頼った安全保障は、3万発以上の核弾頭の下で暮らすという現状を改善しません。エネルギー消費に頼った繁栄は、地球温暖化やオゾン層の破壊が進行するのを止められないでしょう。さらに、利潤と効率優先の競争原理は、「ともに生きる」「分かち合って生きる」ことの豊かさを、社会からどんどん失わせてしまいます。こうした状況は、私たちをとりまく、まさに「暗闇」(4節)のようです。

「人々が『無事だ、安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う」(3節)――もし、これが私たちにとって最後の言葉であるなら、自暴自棄になっても仕方ないのではないでしょうか? 「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」(イザヤ22,13)。

III

しかしパウロは言います。

「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです」(4-5節)。

一見するとこの発言は、イエスの言葉を否定しているように映ります。しかし世の終わりにキリストの再臨を信じているパウロにとって、終末とは単なる破壊ではありません。世の終わりに到来するのは、私たちの見知らぬ審判者ではありません。それは自らの安全確保をまったく放棄して、私たちのために死んだイエスです。この希望に基づいてパウロは、イエスの言葉につなげつつ、さらにこう言います。

「わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(5-6節

「目を覚ましている」とは、睡眠をとらないという意味ではもちろんありません。そうではなく、例えば羊飼いが羊の番をしながら野宿するとき、どろんどろんに熟睡しないで、絶えず周囲に注意を払っているように、精神的に覚醒していることを意味します。「身を慎んでいる」とは、酒に酔わないで、しらふでいることです。

IV

精神的に覚醒しており、冷静に現実を見つめていること――パウロは、そうした態度を、「昼に属している」こと、また「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」こと、と比喩を用いてパラフレーズします(8節)。二つの表現は、まことに印象的です。日本の政治は、昼間の国会討論よりも、むしろ夜の料亭での仲間内の話し合いで決まることが多かったのです。「昼に属する」とは、意思決定のプロセスにおける公共性と透明性を重んじることを含んでいます。また「胸当て」「兜」とは、本来は自衛のための武具です。それが、「信仰と愛」「救いの希望」という、およそ武力とは対極にある存在のあり方と結合されています。このことは、真の自衛手段が武具ではなく、信仰と希望と愛に基づく生き方そのものであることを示唆していると思います。

さらにこうした生き方が、世界の難しい現実から一歩退いて安全地帯に逃げ込み、第三者的な観察者・批評家の立場を決め込むこととも違うことは、フランチェスコの「平和の祈り」の一節を見れば、すぐ分かります。

「わたしを あなたの平和の道具として お使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑いのあるところに 信仰を
誤りのあるところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに よろこびを
もたらすものとしてください」

「信仰」「愛」「希望」という言葉は、「ゆるし」「一致」「真理」「光」「よろこび」といった言葉とともに、「わたしを あなたの平和の道具として お使いください」という祈りの中に現れます。これは、「憎しみ」「いさかい」「分裂」「疑い」「誤り」「絶望」のあるところ、つまり「闇」にとらわれた世界の現実に、クリエイティヴな仕方で関わってゆくことを求める祈りです。

V

こうしたパウロの姿勢は、おめでたい理想主義に過ぎないのでしょうか。いいえ、創造的な生き方こそ現実的であると考えてよい根拠について、最後にパウロはこう述べます。

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。(9-10節

「怒り」とは本来「神の」怒り、つまり最後の審判における呪いの判決を意味します。他方で、「怒り」は私たちの中にもあります。とりわけ自分よりは弱いはずの人々が自らの権利を主張するとき、あるいは社会から保護を受けたとき、こうした人々に対して、「天井知らずの権利を主張する奴らは許せない。オレたちだって必死にがんばってるんだ」と、社会の中で大きな「怒り」が噴き上がるのです。怒りのほこ先は、例えば外国籍の人々、女性たち、シングルマザーであったり、同性愛者たち、障がい者、ホームレス、あるいは生活保護や介護保険の受給者たちであったりします。背後にあるのは、大きく流動化した社会における、自らの身の安全に対する不安です。

そのことを思うとき、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではない」という発言は、いっそう含蓄に富んでいます。私たちは神の怒りの裁きに渡されているわけでもなければ、他者に対して「怒り」で反応すべく定められているわけでもない。むしろ神から罪赦されて、この世界に向かって「信仰と愛」そして「希望」(8節)で応えるよう招かれています。

「主イエス・キリストによる救い」とは、私の身の安全を案ずるが故の「不安」や、他者に対する「怒り」からの救済でもあるに違いありません。そのことが納得できて初めて、私たちは「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになる」ことができるようになるのだと思います。

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