2006・8・20

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「平和への道」

廣石 望

イザヤ書33,1-16; ルカ福音書19,41-48

I

この箇所で、イエスは、やがて死ぬことになるエルサレムに近づき、その都が見えたときに声をあげて泣き、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない」(42節)と嘆いています。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」という言葉は、私には、今の私たちに向けられた言葉のように感じられてなりません。「平和への道」を、どうすれば見出すことができるでしょうか。

これに続けてイエスは、「やがて時が来て、敵が回りに堡塁を築き・・・」と言います。この描写は、古代の都市攻撃を描く一般的な特徴を含んでいます。しかし、紀元1世紀の末に福音書を書いているルカとその読者にとって、この筆致は、明らかに紀元70年のローマ軍によるエルサレム攻撃と神殿の破壊を意味します。つまりルカは、イエスが処刑されて40年後に生じた戦争の悲劇を、イエスのエルサレム入場と関係づけて描いているわけです。そのことを、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」(44節)というイエスの言葉が暗示しています。「神の訪れてくださる時」という表現は、おそらく二つの意味を含んでいます。一つは、イエスが平和のメッセージをもたらすとき、そして二つ目が、そのイエスを拒絶した民族に、やがて神が戦争による破壊をもたらすときです。私たちは、いまどのような「神の訪れ」の時に直面しているのでしょうか。平和のメッセージをキャッチするための時であってほしいと願います。

II

イエスの時代、「平和への道」はどのように見えたでしょうか。少しだけ歴史の話をしましょう。それは離れて全体として見れば「平和」な時代、しかし近づいて個別的にみれば、とても平和とはいえない緊張と紛争の火種に満ちた時代でした。

「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と謳われた帝国の最盛期(およそアウグストゥス帝からコンモドゥス帝まで、つまり前27年から後192年まで)は、ネロ帝暗殺直後の騒乱を除けば、外面的には、内戦のない非常に平和で繁栄した時代でした。

しかし視点をユダヤに向けると、様相は一変します。ユダヤ人は、前63年にローマの武将ポンペイウスにエルサレムを一時的に占領されて以降、じつに200年の長きにわたって、ことあるごとにローマ帝国と衝突しました。例えば前4年にヘロデ大王が死ぬと、その後継をめぐって、ローマ帝国の傀儡政権を拒絶する勢力を巻き込んだ内乱状態が生じました。後6年、ユダヤがローマ直轄の属州に組み入れられると、ガリラヤのユダという人物が、ローマによる徴税に対する反対闘争を開始します。彼は「土地の収穫はすべてヤハウェの神ひとりのものだ。税金を納めることは第一戒に対する違犯だ」と主張しました。後39/40年には、皇帝ガイウス・カリグラが聖都エルサレムに自身の立像を持ち込もうとして、緊張が高まりました。この緊張は、ネロ暗殺によって回避されました。そして後66-70年が、先ほどふれた第一次ユダヤ戦争です。この戦争に負けたユダヤ人は神殿を失っただけでなく、彼らには新たに特別な税金が課せられました。その後115-117年、オリエントの各地でユダヤ人の反乱が起こります。その結果、ヘレニズム文化の中心地のひとつであったアレクサンドリアのユダヤ人共同体は、かつての輝きを永遠に失うことになりました。最後は後132-135年のバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)です。ここでもローマに敗れたユダヤ人は、とうとうエルサレムへの立ち入りが禁止されました。エルサレムは「アエリア・カピトリーナ」という名の異教徒たちの都市になりました。

ではイエス時代、つまり反徴税闘争(後6年)とカリグラ危機(39/40年)の間は、全体としては、どのような時代だったでしょうか。これまた外面的に見れば、ある意味、安定期だったのです。この時期、ローマから派遣されるユダヤ総督とエルサレムのユダヤ人指導者層との間に、政治体制に関しておおむね合意が形成されていました。ローマの歴史家タキトゥスは、「ティベリウス帝の支配下は平穏であった」と簡潔に述べています。ガリラヤでは、ヘロデ・アンティパスという王が43年間という長きに亘って支配権を保つことができました(前4年から後39年)。

でも、近づいてよく見ると、そこにも紛争や緊張の芽がいっぱいあります。ガリラヤでは、先にふれた王ヘロデ・アンティパスが、後19年にセッフォリスというところから、ガリラヤ湖畔に都を移し、それにティベリアという名を与えました。当時のローマ皇帝ティベリウスにちなんで自分の王国の首都を名づけるのですから、この王は自らをローマ皇帝の家臣をもって任じ、帝国に忠誠を尽くしているわけです。しかし新しい都ティベリアはかつての墓地の上に立てられました。彼の王宮には、動物の絵が描かれた広間がありました。さらに彼は兄弟の妻ヘロディアと再婚しました。これらのことすべては、伝統文化に従って生きるユダヤ人民衆の感情を害しました。エルサレムでは総督ピラトが、異教のシンボルが刻まれたコインを鋳造させたり、ローマ皇帝のシンボルをエルサレムに持ち込もうとしたり、あるいはエルサレムの水道工事のために神殿財宝から出費させたりして、同様に、民衆の反感を買っています。つまりガリラヤでもユダヤでも、支配層は民衆の文化と生活様式を「脱ユダヤ化」「親ローマ化」しようと試み、民衆はこれを拒絶したのです。

イエスの前後には、預言者がたくさん登場します。洗礼者ヨハネは、王ヘロデ・アンティパスの婚姻を批判し、洗礼による「罪の赦し」を述べ伝えることでエルサレム神殿の価値を相対化しました。イエスの死後、しばらくしてサマリアに登場した無名の預言者は、かつての北王国の聖所ゲリジム山上に、「モーセが隠した聖具を掘り起こす」と言って群集を集めたそうです。つまりエルサレムでなく、ゲリジム山こそが真の礼拝場所だと言いたかったのでしょう。総督ピラトは軍隊を送って人々を虐殺し、その責任を問われてローマに召還されます。アレクサンドリアのフィロンは、ピラトについて「収賄、蛮行、略奪、虐待、侮辱、裁判なしの処刑の連続、前代未聞の耐え難い残忍さ」という酷評を残しています。このピラトの下で、イエスも処刑されました。

こんな時代、つまり全体として見れば平和で繁栄しているが、個別的に見ると緊張と潜在的な暴力に溢れた時代に、「平和への道」を見出すことは、たいへん難しかったろうと思います。

私たちの時代も似通っています。少々不景気とはいえ、私たちはあいかわらず物質文明の真っ只中にあります。スポーツを含めて娯楽にも事欠きません。それと同時に、残酷な殺人事件、収賄、詐欺といった事件は日々の出来事の一部です。隣国との間には領土問題、歴史認識問題、核の危機があり、先週は若い猟師さんが隣国の国境警備隊によって射殺されてしまいました。

III

イエス自身は、彼の時代の中で、どのように行動したのでしょうか。

今日のテキストの後半部分は、いわゆる「宮清め」のエピソードです。なるほど一見するとイエスは、「強盗の巣」に堕落してしまった神殿祭儀を「祈りの家」にふさわしいものに改革しようとしているようです(46節)。しかし「祈りの家」タイプの神殿祭儀が、どのようなものであるか、私にはよく分かりません。他方で、イエスには神殿崩壊預言の伝承が残されています(マルコ13,214,58)。するとイエスの本来の意図は神殿の「改革」というより、むしろその「無効宣言」にあった可能性があります。現在の神殿は、「神の国」が来ればその機能を終えて、解体されるであろう。イエスがそう教えたとすれば、彼が境内の商売人たちを「追い出し」たこと、イエスの境内での教えを見守っていた神殿指導者たちが彼を「殺そうと謀った」ことは、よく理解できます。

今日のエピソードに先行するのは、エルサレム入場の物語です(ルカ19,28以下)。イエスはオリーブ山のある方角、つまり町の東側から、ロバにのって入城します。この入場方法は、ローマ帝国の支配との違いを意識したものであったかも知れません。なぜなら過越祭のような大きな祭りに際して、ユダヤ総督は、駐屯地である海のカイサリアから、つまりエルサレムから見れば西側から、治安警備のために、一個師団を率いて町に入ってきたからです。

イエスが目指した「平和」は、エルサレムの神殿勢力とも、ローマによる軍事支配とも一線を画していました。彼が目指した平和を表現するシンボルの一つに、イエスが任命した「十二人」の弟子たちの存在があります。「十二」という数字は、もちろん「イスラエルの十二部族」、つまり王制や神殿制度が成立する以前の民族史伝統に由来します。しかもイエスが実際に任命したのは、「族長」のような偉い人ではなく、ガリラヤ出身のただの平民たちです。この彼らに向かってイエスは、「あなたたちは十二の位に座して、イスラエルの十二部族を裁くであろう」と言います(マタイ19,28ルカ22,30参照)。イエスの目指した「平和」は、皇帝とか王とか大祭司などのエリートでなく、民衆に視座を据えていました。

IV

私たちは、どのような平和のためのシンボルをもっているでしょうか? それとも、平和とは反対の方向を指し示すシンボルに囲まれているでしょうか?

『素顔のイスラエル軍:最前線の兵士たち』(サミュエル・カッツ著、大日本絵画)という書物は、徴兵されたイスラエルの若者たちが、どのような訓練を通して国防軍の兵士になってゆくかを描いています。そこでは「マサダ」というシンボルが使われます。マサダは、第一次ユダヤ戦争最後の激戦地です。この要塞に立てこもったユダヤ人たちは、敗北が避けがたいことを悟ると、痛ましい集団自決を遂げました。その2000年前の古戦場で、現代イスラエル国防軍の戦車部隊に入隊した初年度兵たちが、「マサダは二度と陥落しない」と言って軍に忠誠を誓うそうです。また彼らに戦闘行為を教える「美人教官」たちは、若い兵士たちの羨望の的であるそうです。美しい女性たちへの憧れが、殺人技術の習得プロセスと同居しているのです。何というシンボリズムでしょう!

同じイスラエルに関わる別の本があります。『平和への夢:自爆攻撃にまきこまれた少女の日記』(『平和への夢』出版委員会、PHP)は、バット・ヘン=シャハクちゃんという、1996年3月、彼女自身の15歳の誕生日に、パレスチナ人の自爆テロによって亡くなった少女の夢を描いています。彼女は、4人の仲良しの友だちと、誕生日のお祝いに町に出かけ、そこで自爆テロに遭遇しました。彼女を含む3人が即死、1人が生き延びました。バット・ヘンちゃんが9歳のときに書いた詩があります(同書22頁)。

わたし、国のために祈っています。
この美しいいい国には、
花もあるし、木もあるし、ちょうちょもいるし、なんでもあります。
この国にほしいのは、ただひとつ、平和です。
わたしは、それがほんとにほしい。
どうして平和にならないの、
お母さんにきいても、こたえません。
ただ、わたしのあたまをなでるだけ。
テロのニュースをきくと、私は不安で、気分が悪くなる。
だから、お母さんにきかないではいられません。いつ平和になるのって。
わたしは、平和になる日をまっています。
わたしは呼んでみます。
平和さーん、きて、きてーっ
呼んでも呼んでも、平和はなかなかやってきません。

バット・ヘンちゃんのご両親は、娘の夢に促されるように、やがてパレスチナとイスラエル双方の遺族の会に参加します。彼女のお母さまは、ヒロシマを訪れておられます。

彼女はひとつのシンボルを私たちに残しています。彼女の名「バット・ヘン」は、ある花の名前――私にはその写真は「ひなぎく」に見えます――なのです。「ひなぎく」ちゃんの平和への夢!

原始キリスト教は、先に述べたような、ユダヤ人とローマ人の間にあった危機そのものを用いて、自分たちのアイデンティティを表すシンボルにしました。「十字架につけられたキリスト」が、それです。十字架とはローマ人が用いる処刑法でした。「ローマ人によって虐殺されたイスラエルのメシア」というシンボルは、やがて民族間憎悪を乗り越えるための平和のシンボルとなりました。ですから「十字架につけられたキリスト」というシンボルは、本来、キリスト教徒のためだけに用いられるべきものではありません。そうではなく、例えばバット・ヘンちゃんのように、平和を望みながらも自らの力で暴力をかわすことのできない弱い立場にある人々のためにあると思います。

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