福音書では、イエスキリストが何回か奇跡を行う。そして目の見えない人や重い皮膚病、悪魔憑きなどが救われる。しかるのちにイエスは言う「このことは誰にも言ってはいけない」
なぜだろう?
そもそも人は「言ってはいけない」といわれたことを守るなんて無理で、「ここだけの話」をそちこちの人が知っていることも珍しくあるまい。(キリスト教の発展に懺悔が少なからず働いているというエッセイを読んだこともあるが、それはそれとして)実際、イエスキリストによって行われた奇跡は「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」(マルコ福音書7章36節)
私が最初に思いついたのは、「実は言いふらされたかった」。
私は広告(企業情報の社会への伝播)の仕事をしているのだが、その方法の1つ「口コミ」を使うときの常套手段。「あなだだから教えるんだけど」「ここだけの話なんだけど」「業界では有名な話なんだけど」・・・。心が曲がっていて、軽率な考え方ですね。
しかしあと数行聖書を読めばわかることなんだけど、そうではない。一言で言うと、「奇跡、またそれによる賞賛はイエスキリストの目的ではないから」だ。
さて、ここでまた仕事の話。
ある商品があるとして、その売り方・広告の方法は結構考えられている。その方法の大部分は「AIDMAの法則」というものにのっとってる、はずである。(広告の教科書の10ページ目以内に必ず載っている法則)
まず消費者の注意を喚起する(Attention)、そして興味をもってもらい(Interest)、欲しいと思わせ(Desire)、記憶させ(Memory)、Action・行動にうつして、つまり購買してもらうわけだ。
しかし、上記を守らず、または守れず、悲しい運命をたどる商品も多い。商品そのものに問題がある場合もあるけれども、この売りの過程で失敗することもよくある。いわゆる「マーケティングの失敗」。
例)ある豆乳入りのクッキー、著名シェフのレシピに基づいて健康に気遣った商品のはずであったが、この商品の訴求ポイントは「簡単に4キロやせる!」。この商品はとてもよく売れているが、このクッキーを食べれば4キロやせるなんてわけはなく、軽く法律にふれている。正しい表現は「著名なシェフによるおいしい豆乳クッキー。豆乳には代謝を云々でやせると言われている」程度。しかし、消費者(人々)は、わかりやすさに反応してしまうものなわけです。
このクッキーは売れている、ただし、常にうしろめたさをもって(本人たちが感じてるかどうかは別だがな)。
イエスの奇跡は、彼の力によって理想世界−つまり規則を守って神を信仰してるという世の中で起こす革命への手段のはずであったが、その奇跡は人々の目標となってしまう。(数千人の腹をみたすほどパンが増えた後、「彼を王にしろ、我々は飢えることがない」という人々の意見に、イエスは暗い顔をしてその場を立ち去る)Attention,Interestに対する人々のDesireが別のところに大きく反応してしまった。マーケティングの失敗である。彼は1人、1人の救いの際に内緒にね、とか言っているけど、こんなにわかりやすく大勢の人の前でも奇跡をおこしている。奇跡は目立つ、それによって人々は驚嘆する、ファリサイ派、サドカイ派の人も同様に。
そのことが彼を極刑である十字架につながっていく。あろうことか彼はそれもわかっている。で、それを避けるわけにはいかないだろうか?と祈っていたりもする。
しかし、そこに自分が原因を取り除くことによって問題解決できる人がいて、救わずに通り過ぎることが彼にはできなかったと、私は思う。道を聞かれて答えるような程度なのかもしれないし。私たちだって、わかれば教えるでしょう?当時の病が差別に直結し、社会の最下層で人間として扱われなかった人々は、その病を取り除けば、病の苦しみと人間らしさの苦難、両方を取り除けることになるわけだ。(実際、病気がなおったからって、すぐに社会に参加はできなかったように思うけれども)
マーケティングとかさっきから言ってますが、片腹痛くも続けると、イエスの布教活動は、マーケティング的には失敗。何かを広めるには、政治に逆らうなんてマーケティング以前の問題でもあって、時の権力を囲い込み、かつ人々にわかりやすく、後(今?)のキリスト教のように「神の名によって」戦争できるくらいに。
ただ、彼の活動および死、それにともなう侮辱、裏切りは、すべて復活によって逆転の大団円をむかえる。
私には、長らく「イエスが私たちのために十字架について下さった」ことについて感謝することがわからなかった。感謝ってなんだ?あえて言うなら謝れ、と。この教会にきてまもなく、私は村上先生にそのことを訊いた事がある。村上先生は、そのためにわざわざ次の月にレジュメまでつくってくれて、話して下さった。復活は、神による赦し、神との契約に違反していることの是正を求めた神が、この世につかわした一人息子の心なく裁き極刑につけた人々に対して神の対応は、復活=愛であった。
(先生のテキストの読み違いもあるかもしれん。原文をよみたくば、別途アップしてもいいぜ、あ、先生の許可が必要か。)
つまり、イエスが数々の奇跡を行ったことで布教もできたが極刑にも処された。彼の犠牲と神の赦し(愛)が(あとそれに続く弟子の布教)、人々のMemory・Action=信仰につながっていく。「復活あってのキリスト教」の所以はこんなところじゃないか?と思っている。それがイエスの望んだ段階じゃなかったとしても、そして私たちは、その赦しに甘えすぎているところがあるキライはあるけどもな。
ま、こんな感じです。
以下、みなさんのご意見。「奇跡は、インパクトのある話として意図的に取り上げられているところもある。また、奇跡のための奇跡ではなくて、奇跡を受けた人の信仰によってなされたものといわれている」→それはそれ、私がいいたいのはあくまでその後の内緒の約束がおかしいと思う。
「秘密はあくまで秘密、しかもそんな恩人との約束を破ることはないのではないか?」→現実的には、みなベラベラしゃべっていると聖書に書いてある。
(商品開発をする企業の話から)現世利益的な宗教についていくつかやりとり。ちなみに、中国では現世利益的なキリスト教は教えられない。さくっと聞いたところでは、キリストを信じることでイバラの道でも心の平安が得られるようなことを説く。