この世界に救い主として来られたイエス・キリストはおおよそ30歳ごろに宣教活動に入られました。ここからの主イエスの歩みは「公生活」「公生涯」と呼ばれます。まず主イエスがなさったのは当時、ヨルダン川の辺りで洗礼運動を繰り広げていたヨハネから洗礼を受けることでした。
その後、主イエスはただちに神の国を宣べ伝えて、苦しむ人、悩む人、病める人などに癒しとそこからの解放を告げ始めました。公現日のあとの主日には必ずこのイエスの洗礼の記事が読まれます。主イエスが受けた洗礼の出来事を祝うとともに、私たちが受けた洗礼の意義を考え、またこれから洗礼を受けようとする人には、洗礼の意義に加えて、クリスチャンとして生きることはどういう道なのか、ということを併せて考えてみましょう。
神に背を向けて歩んでいた人、あるいは神を知らずに生きていた人が、神の方向に向きを変えることを「悔い改め」と言います。この悔い改めの〈しるし〉としてヨハネはヨルダン川の水で一人ひとりを洗い清めておりました。水で洗うという行為は全世界、あらゆる宗教など共通のようです。
日本でも古来から禊など、また神社などに入る時に手や口を水で清めるように、ヨハネも水を用いて洗礼のしるしとしておりました。15節を見ますと、民衆はこのヨハネが救い主ではないか、と期待したようでした。ところが16節を見るとわかるように、あとで「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」とこの後での救い主の到来を告げています。そしてそのヨハネのもとに救い主イエスご自身が洗礼を受けにやって来るのです。神の独り子であり、神と一致して生きていたイエスがなぜ洗礼をお受けになったのか、とても疑問になるところです。今日の箇所ではなかなかその真意がつかめませんが、実は主イエスの洗礼の出来事についてはこの後の箇所、ルカ3章の21節から短く記されています。イエスの洗礼についてのエピソードは4つの福音書のすべてに記されています。その一つマタイ3章14,15節にはこうあります。どうぞお聴きください。
主イエスは私たちと同じようになって生きることを願われたのです。ここに人間とともに謙遜に生きたいと願われる救い主の姿を見るのです。どこまでも私たち人間とともに歩もうとされる、へりくだった救い主です。
ルカによる福音書では、主イエスが水から上がり「祈っておられる」と天が開け、神の力である聖霊が鳩のような姿をしてくだってきました。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(22節)とあります。謙遜に生きようとされたイエスに対して親である神からの祝福の返答でした。
さて、私たちも主イエスに倣って、謙遜に生きる道を歩みたいと願います。そのために今日のルカ福音書が伝える一つの主イエスの行為を見落としてはならないでしょう。それは神に「祈る」ということです。先ほど、マタイ福音書の洗礼の記事を読みました。それはマタイの記事では、主イエスが「すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた」。しかしルカはまた違う描写をします。「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け」(21節)としています。しかしルカ福音書を記した人たちは、「祈る主イエスの姿」を強調したかったことはあるでしょう。
実際にルカ福音書の全体を読むと要所要所で主イエスが祈っておられる姿がたくさん描かれているのです。おそらくルカは謙遜とは何か、謙遜に生きた主イエスをありありと伝えるために、「祈るイエス」を強調したのでしょう。主イエスが洗礼をお受けになられた直後に祈られたことで天が開け、祈って12人の弟子を選ばれ、祈ってご自分が何者であるのかを明かされ、そして祈って十字架の道を歩んでいかれました。その十字架への道を歩まれる前のオリーブ山(ゲツセマネの園)での祈りの後で、ルカ福音書だけがこう記しています。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」(22:43)。そして十字架上では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)このように祈って息を引き取りました。
主イエスは私たちに祈ることを教えてくださいました。祈ることは神と一致して生きる道です。祈ることは私たちが神に祝福され、神からいのちをいただき、神とつながることができる唯一の方法です。この現代社会に生きる私たちも、地にしっかりと足をつけて生きるために、まず祈る一人ひとりとなることです。そしてこの混沌とした先の見えない世の中にあってまず祈ることで私たちの方向性を神によって示していただき、福音を伝えていくことが重要です。
さて、今度は私たちと洗礼について考えてみましょう。私は洗礼を受けることをためらっている人たちに「洗礼は卒業式ではありません。神の国の入学式です」とこれまでに何度も言ってきました。洗礼は神の民の一員となる機会です。洗礼は神と結ばれて生きる第一歩です。世界中にクリスチャンがいます。洗礼を受けることはアメリカにも、韓国にも、ヨーロッパやアフリカなど世界中にいる神の民と「きょうだい」になることでもあります。
随分前のことになりますが、近くの教会で伝道師をしている若い先生から電話がありました。「今度の入門講座でクリスマスに洗礼を受ける人たちに話をするのですが、どうやって洗礼について教えたらいいですか?」と相談されました。聞くところによると、その日一回限りで、時間は30分であとは質疑応答だと言うのです。本で勉強している暇はなさそうですし、30分で何を語れるのだろうと悪戦苦闘しながらその先生と一緒に考えました。
考えていった結果、私はこう語ることを提案しました。「洗礼を受けると2つの住民票を持つことになる。それは天にある神の国の住民票、そして、地上の教会の住民票、この2つの場所の住民になる。だからこれまでは神に背を向けていたり、知らなかったかもしれない、でも今は神の国の住民になったのだから、神を礼拝することを大切に生きること。そして地上の教会の住民として、積極的に教会の運営に関わること、奉仕も大事だけど献金も忘れないでね(笑)と言ってはどうでしょう」と伝えました。その先生はうまく話すことができたと後日知らせてくれましたが、大切なのは私たちが神を信じて、神が送ってくださった救い主イエスを心に受け容れることです。
洗礼の時に水を頭の上に注ぎながら、新しく神の子ども、神の国の住民が誕生する瞬間というのは、言い知れない感動を受けます。実は洗礼を授ける時、手にビリビリっと神の力というのか、聖霊の力をいつも受けるのですね。本当にそういう瞬間に立ち会える牧師としての喜びがありますが、主イエスが洗礼を受けた際に天から聞こえてきた神の声をを私たちの心に刻みたいと思うのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というみ言葉は実は私たちにも語られています。神は一人でも多くの人が洗礼を受けることを願っていますし、すでに洗礼を受けた人も「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と常に祝福をしてくださっています。
私たちは洗礼の恵みに与ったその日に、主イエスとともに新しいいのちに生きる者となりました。今、目をとじて私たちがそれぞれに洗礼を受けた日のことを思い起こしましょう(まだ洗礼をお受けになっておられない方は主イエスが今日私たちにかけてくださった言葉を心に留めて黙想しましょう)。
(祈りましょう)イエス・キリストのいのちの源である神、私たちに洗礼の恵みを通して新しいいのちを与え、私たちがあなたへと向き直す機会を与えてくださいました。あなたの恵みによって私たちがいつまでもイエス・キリストに結ばれていることができますように、お導きください。また今は洗礼を受けておられない方々も他日この恵みに与ることができますように、聖名によって祈ります。アーメン。