2021.11.28

音声を聞く

「解放の時は近い」

中村吉基

エレミヤ書33:14〜16ルカによる福音書21:25〜28, 34〜36

 

 今日から待降節(アドヴェント)に入りました。待降節とはラテン語の「アドヴェニオー」という言葉から来ていますが、文字通りキリストを待つ時です。4週間の時を私たちは旅します。今日夜明けを表す紺色のキャンドルの1本目を灯しましたがこれが4本灯りますとクリスマスに一番近い日曜日となります。

 さて、今日の聖書の箇所はこのように告げています。

25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

 この世の終わり(終末)にはこのようなことが起こるとルカは描いています。先週の日曜日の礼拝で私たちはマルコの13章から、これと同じ天変地異について聴いたばかりですが、世の終わりというのは、旧約聖書などにもいくつか見られる表現ですが、これは人間の罪に対して神の裁きがくだされるという時に表現されています。私たちも世の終わりと言えば、核を用いた世界規模の戦争であったり、環境が破壊されて人類が滅亡するというような恐ろしいことを思い描いたりしますが、実は、聖書が描く終末は、<神の救いの日>でもあるのです。私たちが救われて、いよいよ神に出会う日なのです。

 しかし、先週も申しましたが、突然ここで世の終わりなどと言われても、ピンと来ないかもしれません。そういうときには自分の死について考えてみると良いかもしれません。なぜなら死とは、「私という人間の終わり」であるからです。今日の34節の後半にこのように書いてあります。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」死は突然やってきます。最近は自分自身のエンディング、終活を盛んにする人たちもおります。そうして死への準備をして亡くなる方も居られますが、けれども自分の死の日時までははかり知ることはできません。

 死は突然やってきますが、私たちは良く知っているように、それだけで終わりではないのです。確かに地上での生涯が終わりになりますが、私たちは神から永遠のいのちを頂いているのです。神の優しい光と愛に包まれながら、私たちは死という暗い出来事を通して、新たな世界で生きることが約束されているのです。

 ですから、聖書が終末について語るときそれは人間にとって辛く、悲しいことの始まりを預言しているのではないのです。また恐怖心を煽り立てて人間をむしろ、喜びに満ちて、うれしく楽しい、愛と感謝にあふれた世界の扉が開かれるのです。今日の聖書の箇所もその時に備えて神の愛に信頼して、今日という日を精一杯生きるように努めなさい、という神のメッセージなのです。

 27節の人の子すなわちキリストが大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを私たちが見るときに、28節にはこのように書かれています。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。つまり天変地異が起こって人びとが混乱に陥るようなことがあっても、私たちキリストを信じる者は「身を起こして頭を上げ」ることができる。キリストがお越しになるのは、私たちを解放しに来られるからです。

 この「解放」と訳された言葉、奴隷や捕虜を自由の身にするために「身代金を払って買い戻す」ことを意味する言葉です。教会ではよく「贖い」という言葉が使われますが、これはキリストが私たちのために十字架に架かり、私たちの一切の罪を贖ってくださった、ということを指す時に用いる言葉です。私たち人間はただ死ぬだけの、滅ぶだけの存在でしたが、キリストの十字架の出来事がそれを回避させてくださったのです。28節の「解放」とは「完全な救い」が実現する時が近いのだ、と理解できるでしょう。

 それでは私たちは何から「解放」されるのでしょうか。

 逆の面から考えてみれば、私たちは今、何に縛られているでしょうか? ありとあらゆることが私たちの心をよぎるでしょう。さまざまな不安があるでしょう。仕事のこと、家族のことなどなど、それだけではありません。この世界にはびこる《悪》のことです。あちこちで起こっている戦争はなかなか終結しません。それどころか私たちの国はますます戦争がいつでもできる国に変貌しようとしています。いじめの問題でも子どもの世界のことばかり言われますが、おとなの世界にもたくさんいじめはあります。暴力が絶えません。虐待だけではなく、それがいのちを奪う行為に発展していきます。犯罪も絶えません。人は簡単に罪を犯しますし、それに対して罪悪感はほとんど見られないようなことさえあります。それらの現実に触れれば触れるほど、私たちはやりきれない思いを抱き、絶望感すら味わうのです。

 しかし、神は沈黙のうちにも、私たちを救いへと招き、解放させてくださるのです。旧約聖書のレビ記の掟では、奴隷や捕虜になった人を買い戻すことができるのは、その人の血縁の者だけでした。今、ここで神はまさに私たちの血縁――親となって、私たち一人ひとりを愛し、そして絶望の淵からも救い出そうとされるのです。その神の救いは実現したことがクリスマスの出来事であり、人となられた神、主イエスなのです。クリスマスを祝うということは何かロマンチックな雰囲気に浸るということではないのです。神が私たちにくださった贈り物――主イエスを見つめながら救いの喜びを新たにする時なのです。

 また私たちが解放されない現実のこととして、34節には「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とあります。私たちはすぐに快適な生活、豊かな生活に憧れ、本当に大切な生き方を見失っていることへのアドヴァイスです。ここで「心が鈍くならないように」と言われている「心」という言葉はカルディアと言います。カルディアは人間の肉体の生命や内的な中心を表す言葉ですが、聖書では感情ではなく理性や意志を表します。つまり放縦(勝手気ままに生活をすること)や深酒や生活の煩いというものは人間の理性を鈍くして、今私たちが直面していることへの判断を誤らせるのです。私たちの解放はそこからの解放でもあるのです。

 最後に「いつも目を覚まして祈りなさい」とあります。これは「祈っている時はいつも眠いけれど、自分を奮い立たせて祈りなさい」と言っているのではないのです。眠気を醒ましてという「目を覚まして」という言葉の使い方もありますが、この言葉は「(私たちの)あるべき姿に気付き、油断を怠らずに目覚めている」という意味です。ですからここでは、34節の「放縦や深酒や生活の煩い」に関連してきますが、「価値のないものに目を奪われず、主イエスを通して与えられる大切なものを見つめながら生きていく」ということです。

 皆さんは生きる希望を持たれていますか? 希望を与えられるのは、例えば人から信頼されたり、期待されたり、人が自分のことを必要だと言ってくれたときに生きる希望が湧いてきます。それと同じように、神との出会い、主イエスとの出会いの中で「あなたは私が造った世界にとって大切なひとりなのだ」「あなたは愛されるために生まれてきた」と語りかけてくださる時、親である神が私たちを解放へと向かわせてくださる時、このことをいつも忘れないことが「目覚め」につながっていきます。

 「目覚めて、感謝して、祈る」生き方こそが私たちにとって大切な営みであることがここで語られています。目を覚ましていることとはすなわち「祈る」ことでありますが、私たちはいつも祈ることを通して「心が鈍くならないように」(34節)し、「主の祈り」でも祈られますが、「試練」や「悪」から救われ、そして36節「人の子(キリスト)の前に立つことができるように」なるために祈りはあります。この人の子・キリストが愛によってすべてを完成させるときまでに、私たちがふさわしい生き方をすることができるようにさせてくれるのも「祈る」ことによってできます。キリストが私たちの前に姿を現してくださるその時に、果たして私たちはどのようにキリストの御前に出るのでしょうか。その決定的な出会いを前に待降節の時があるのです。クリスマスまでの4週間、私たちの信仰や普段の生活を見つめながら、また見直しながら静かに過ごしていきましょう。


 
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