2021.11.21

音声を聞く

「わたしの言葉は決して滅びない」

中村吉基

ダニエル書 7:9〜10,13〜14マルコによる福音書13:24〜32

 

 ペンテコステの後、約半年間を「教会の時」を過ごしてきました。いよいよ今日でこの期節が終わり、これからの半年は「主の時」、教会の新年である待降節(アドヴェント)を迎えます。私たちは今年、礼拝において特別礼拝などのない限りマルコによる福音書を中心にみ言葉に聴いてきましたが、今日で一旦それを終えます。今日の箇所は終末における「キリストの再臨」の出来事に思いを馳せていきます。

 このマルコ福音書の13章、ここはマルコ福音書の「小黙示録」と呼ばれている箇所で、主イエスのメッセージが記されてあります。今日は24節から読みましたけれども、最初の1節のところでは神殿が崩壊すると言うようなことが書かれてあります。神殿というのはユダヤの人びとの統一のシンボルというか精神的な支柱でありました。それが崩壊するとなれば人々が嘆き悲しむのは当然のことでしょう。6節からは争いや自然の大災害について描かれています。そして人びとの不安につけこみ、世の中が混乱する中ではびこる偽者の指導者が登場し、人々はいろいろな党派に別れ、憎みあい、敵対し、たとえ家族であっても互いにいがみ合うようなこともあるだろうと主イエスは語られます。さらに14節では大国の侵略を受け、人びとの悲惨な姿を伝え、そして今日の箇所では天地の崩壊を告げるのです。24節で 「それらの日には」とあるのはそのような日のことを指しています。

このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

 私たちはこの1年の間、日本国内、また世界で起こった自然災害、地震や天変地異、戦争、飢餓、そしてコロナウイルスなどの恐ろしい病、さまざまなことを通じて、不安にかられてきたといってよいと思います。こういうことを目の当たりにすると、あるいは実際に経験すると人間は混乱に陥りやすいのです。いえ、パニックに陥ることが悪いのではなく、そのような精神状態になってしまうのは自然なことかもしれません。

 偽指導者のことが出てきましたけれども、現代においてもそのような人々はいます。人びとの不安につけこんで悔い改めを迫ってきたり、全財産を寄付するようにとか、どこか一堂に避難しなさいなどなど、誤った「救い」を説く人びとです。「おぼれる者はわらをも掴む」と言いますが、人びとはその指導者、グループ、教えが正しいのかどうか、深い判断をすることが出来ずに、鵜呑みに、にせものの「救い」に手を出してしまいます。

 こういうことは2000年前の教会にもありました。パウロの手紙を読んでいますと、終末が近づいたから、もう働く必要が無いと言う人びとの姿を伝えています。私たちのこの現代もそうです。偽指導者の根拠のない、いい加減な言葉に翻弄されて、日常生活を捨てて「出家」し、修行などの閉ざされた世界での営みによって救われると信じた集団があることは私たちもよく知っていることです。

 またこのような偽指導者の主張の中に、聖書の記述が使われることがあります。そして世の終わりの日時まで予言する人さえいるのです。しかし、そのような記述を現代に額面通りに受け取ることは正しいことではありません。それらが書かれた時代の状況やそこに表現されているシンボルや譬えの中に秘められているメッセージを読み解く必要があります。

 例えば旧約聖書のダニエル書は有名な黙示文学(後期ユダヤ教と原始キリスト教で発達した終末論的色彩の濃い一群の文書。神によって開示された秘密を幻の中の怪奇な動物などの象徴を用いて報告する。旧約聖書ダニエル書、新約聖書ヨハネ黙示録など)ですが、これが書かれた背景には、当時の人びとが厳しい「迫害」にあっていたことが挙げられます。

 ですからダニエル書が書かれた時代の人びとにとって、終末のメッセージは希望のメッセージとなりました。迫害が続きたとえ現実がどんなに悲惨なものであっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神が勝利し、神のご計画が実現するというものです。5〜23節までの説教でイエスが予告した偽指導者の出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという出来事は、マルコ福音書が書かれた時代には、ほとんどが現実に起こっていることでした。その中で、実は救いの日は近づいているのだ、と語るのです。

28節いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。

 それとは別に、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ警告のメッセージになっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。神の決定的な裁きは突然やってくる」と語ることによって、神のみ心にかなう生き方をするように、と警告するのです。

 私たちの現実はどうでしょうか? 私たちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。その私たちにとって今日の箇所はどのように響いてくるでしょうか。

 今日の箇所の最後で主イエスが31節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と仰せになります。先ほど読みましたけれども13章の初めのところで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかし主イエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと言うのです。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。主イエスが仰せになった「天地は滅びる」というみ言葉は、この世界に壊れない、滅びない、絶対的なものは一つも無いということと、目に見える物質的なもので私たちが信頼できるものは一つも無いということを教えるものです。そして「わたしの言葉は決して滅びない」というのは、私たちの生きかたの中心をイエス・キリストに置きなさいという呼びかけなのです。 パウロという人はユダヤ教の指導者からキリスト教に改宗し主イエスを中心に生きていくことが、それからのパウロの生きかたにも強く影響しました。そして彼は主イエスのみ言葉は「滅びない」と確信しました。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ローマ8:35)。

 同じく39節

高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 神の愛は朽ちることも、滅びることもありません。その神が私たちのところに送ってくださった救い主イエス・キリストに私たちの生き方の中心を置き、この主イエスが示してくださった愛に力を受け、この愛に後押しされてこの世の人びとと共に生きることこそが幸せに人生を送っていく真の信仰者の姿です。

 「マラナ・タ」という言葉をお聞きになったことがありますか? 賛美歌の歌詞にも、あるいは教会の名前にもありますが、歌いますけれども、これは主イエスが使っていたアラム語で「主よ、来てください」という意味の言葉です。コリントの信徒への手紙でパウロが使った言葉ですけれども、主イエスが再びこの地上に来てくださる時には、苦しみや悲しみや病や争いが無くなり、そしてすでに亡くなった人々にも会うことができ、共に手を取り合って喜びを分かち合うことができることを強く信じて、当時のキリスト者たちの間で使われた言葉です。私たちもそれにならい「主イエス、来てください」と祈り、賛美の声をあげながら、信仰の道を進んで参りましょう。


 
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