私たちは心をこめて何かをして、それに応えてくれる人の言葉や行為があると、とても励まされます。元気になります。しかし、いくら心をこめてやっても、無反応な人もいます。正直がっかりします。
しかし、安心していいのです。私たちの親である神はすべてをご覧になっておられます。最初は丁寧にしていたことでも、次第に慣れてくるうちに手を抜くことがあります。人間は油断します。私たちの目には心をこめてしたことと、そうでないことが歴然とわかるときがあります。
けれども、どちらかが曖昧になって分からない時もあります。人間の目を騙すことができても神の目を騙すことはできません。このことは私たちの小さなわざがたとえ、人から見向きされなくても、神だけはじっと見ていてくださることでもあります。
メールで世界中の人に簡単に連絡が取れるようになりました。そのメール一つであってもそそくさと打った文章と心をこめたそれとでは大きな差があります。主イエスはある時「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と仰せになりましたが、私たちも人にしてもらって気分のいいこと、気持ちのいい経験というのが誰にでもあると思います。それと同じことを人にしていけば良いのです。
今日の箇所では大勢の金持ちに対して、「やもめ(夫のいない、夫を失った女性)」がたたえられています。この女性はレプトン銅貨2枚、1クァドランスを入れました。今でいうと130円ほどの金額と考えれば良いでしょう。当時の一日の労働賃金の64分の1に相当する小さな額のお金です。
ここで一つの対比がなされます。金持ちは〈有り余るもの〉から入れ、女性は〈乏しい中から〉入れた。さらに聖書は伝えています。女性は〈生活費全部を入れた〉。金持ちはさして献げても明日からの自分の生活が困るようなものを献げたのでなかった。けれども、女性は生活費全部を献げたというのです。
今日の箇所はいったい何を私たちに教えているのでしょうか?
「私たちの神に対しての態度」の問題です。言い換えてみれば私たちの〈信仰〉の問題です。
その信仰の問題を考えるヒントになる言葉がここにあります。今日のメッセージのキーワードと言っても良いのです。それは「生活費」という言葉です。皆さんは何でこの「生活費」という言葉が今日の箇所の中心の言葉なのか、と思うかもしれません。私たちの読んでいるこの聖書で「生活費(ビオス)」と翻訳されている言葉は、確かに「生活にかかるお金や財産、生計」という意味もあるのですが、もともとは「人生、生涯、生活態度」などを表していた言葉なのです。このビオスを元来の意味を思い起こすならば、この女性が箱に入れたのは確かに「レプトン銅貨2枚」だと書いてありますが、そこには彼女の生活そのもの、人生そのものを神に献げる〈信仰〉が裏打ちされていたのです。
マルコ福音書の記者はわざわざ、「自分の持っているものすべて」と記したあとで、さらに「生活費全部を」これを言い換えれば「生活のすべてを」「人生のすべてを」と記したのは、彼女の生きる姿勢、信仰態度をことさら強調したかったのでしょう。そしてこの箇所は私たちやすべてのものの〈いのち〉を創られた偉大な神への信頼を表すのです。私たちの魂、心、身体、セクシュアリティー、生活環境など、ありとあらゆるものをすべてお献げして、いのちの創り主である神に絶大な信頼を強調するための表現がここに記されているのです。
聖書に記されている「貧しさ」は物質に恵まれない、いわゆる「貧乏」を表しますが、ただ単に貧しいことが悪いことだとは教えていないのです。貧しいゆえに物質や人間的な力に頼ることができない。だから神に頼るのです。絶大な信頼を神に寄せるのです。
もう一つお話しをしておきますと、マタイやルカによる福音書には主イエスの「山上の説教」という教えがあります。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」とか「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」(マタイ5章)などの言葉で知られる美しい教えです。日本のキリスト者はとてもこの教えが好きだと言われています。このマルコ福音書にも山上の説教の一部が見られます。マルコのほうが古くに書かれたわけですから、マタイやルカはそれをもっと充実させて記したのですが、私は、今日の聖書の箇所は「山上の説教」の教えをリアルに物語っている箇所だと理解しています。
例えばマタイにはこのように書かれています。
このようにこの言葉を聞いているとまるで今日の箇所のやもめの態度が浮かび上がってくるのです。
フィリピの信徒への手紙4章6,7節にこのような言葉が記されています。
私たちは、普段の生活の中で、たとえ試練が襲ってきても、嫌なことがたくさん続いても、そこで神に感謝することができなければ、本当に神を信じているとは言えないのです。
ある人が自宅にいる時に、地域のガールスカウトの隊員がやってきたそうです。小さな女の子たちが300円の手作りのお菓子を売っていたそうです。地域活動に使うためのチャリティで彼女たちは活動していました。この家の人はお菓子を買ってあげたいと思いましたが、実はこの人の財布には300円すら入っていませんでした。それでとっさに口をついて出た言葉は「ごめんね。昨日そのお菓子をたくさん買ってしまってまだたくさん残っているんだ」と嘘をついてしまった。女の子たちは「それはすごい、すごい」といって喜んで立ち去っていったのでした。
女の子たちが帰ったあとこの人は「あの小さな女の子たちを騙すとは、自分はなんと情けないのだろう」そして「もうこんな人生には別れを告げよう」と思ったそうです。
「今度あの子たちが来たらお菓子をすべて買ってあげられるくらいになるために、今すぐ努力をしよう」。この人はこの出来事を通してそれまでの卑屈な自分に別れを告げ、奮起するきっかけになりました。
それから数年したとき、またこの人の家にガールスカウトの女の子たちが来ました。その際にこの人は彼女たちの売っているお菓子をすべて買ってあげました。この人は今でもその時の女の子たちの表情を憶えていて、「お菓子を買ってあげただけであんなに喜ばれるなんて」とうれしさが心に刻まれているのだそうです。
主イエスは賽銭箱に自分のすべてを入れた女性を目の当たりにして、神に向かうひたむきな姿、真心をこめて献げる姿に心を打たれました。それはどんな時にも神に委ねる信仰です。自分よりも神を大切にする態度です。私たちに求められるのは、人生を支えるのは自分の力ではなく、神にこそその力はあるのだという信仰です。そしてアメリカの格言には「自分自身が変わらなければ、世の中の方からは何も変わってくれない(For things to changes, you have to change. If you change, things will change.)」というものがあるそうです。皆さん一人ひとりが動かなければ、目の前のことは何も変わりません。ただ皆さんが同じ所に座ったままであるならば少しも状況は変わっていかないのです。まもなく待降節に入ります。待降節は自分自身を顧みる時です。自分のうちに〈怠っている〉ことがないかどうか糾明する私たちになりたいものです。