2021.11.07

音声を聞く

「神は直線を描かない」

中村吉基

創世記1: 1〜8ヨハネによる福音書14:1〜6

 数日前のことです。いつも赴いている高校の聖書の授業のことでした。

 「先生、たまにはハッピーな話をしてよ」と生徒に言われました。今日読まれた創世記から「いのち」について高校生と学び続けています。2学期に入ってからその延長線上にある「いのち」の問題、10代の人が犯した殺人事件から、ヘイトクライムについて。そして、その日私が準備していった授業は安楽死について、延命治療についてでしたので、残念ながらその生徒のリクエストに応えることはできませんでした。しかし、私も身につまされながらドキュメンタリーの動画を生徒たちと見ていて、ふとこう思いました。「死」を受容しなければ、「いのち」の尊さはわからない。闇を知らなければ、光のありがたみはわからないのではないかと……。

 「初めに、神は天地を創造された」。これが聖書の最初の言葉です。たいへん短い言葉ですが聖書は最初に私たちに伝えます。「初めに、神は天地を創造された」。これは最も大切なことを私たちに宣言している言葉です。神が天と地を、そしてこの世界のすべてのものをお造りになったということです。天というのは今、私たちが見たり触ったりできない領域のことです。反対に「地」は私たちが生きているこの現実の世界のことです。またこの「地」というのは私たちの人生そのものだといえるかもしれませんし、そこに私たちの人生の旅が譬えられているのかもしれません。「初めに、神は天地を創造された」。この言葉をご自分の心で読んでみてください。きっと聖書を書いた人々の「こころ」が伝わってくるはずです。

 「人間は死んだらいったいどこに行くのでしょう」。これと同じように私たち人間が自問する一つのことは、「なぜ私は生まれてきたのでしょうか」というものです。この創世記では、それと同じように「なぜ世界があるのでしょうか」「なぜいのちが創られたのでしょうか」と次々とその疑問を解き明かすのではなくて、聖書の記者は最も大切なことを、この創世記の冒頭に記したのです。それが「初めに、神は天地を創造された」という宣言なのです。

 この創世記第1章を読んでいますと、一つの言葉にぶつかります。それは「神は言われた」という言葉です。今日の箇所では、3節6節に、実に1章だけで9回出てくるのです。神は何を言われたのか。それは神がこの世界の一つひとつのものを生み出される時、言葉を用いておられるのです。神は一つひとつを言葉に表しながら、生み出して行かれたのです。神が造られたものはこの世界になくてはならないかけがえのない一つひとつのものでした。神は言葉にしながら、まるで子どもたちを名前で呼びかけるかのようにして創造の業をなし遂げられたのです。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 まず初めに神が「光あれ」と仰せになりました。なぜ最初に「光」の創造なのでしょう。その前の節にそのヒントが記されています。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 神が「光あれ」と仰せになったのは、混沌とした地、それは形も規則性も順序もない、まだこの時点では天地はごちゃまぜになっていて、分かれていないのです。そしてそこは「闇」で覆われていたのです。ここが大切なところです。神が光を造られたのは「闇」の中であったのです。神は闇に向かって「光あれ」と仰せになったのです。そうです、闇に覆われていて暗くては何もできません。視界も遮られてしまいます。しかし、ここで神が言われる「光」とは明かりとしての光、つまり太陽や月のことを言っているのではないのです。なぜなら、太陽や月はもっとあとの第4日目に創造されているからです。

 それでは神が「光あれ」と仰せになって出来た光とは何のことでしょうか。この箇所を記した人々というのはバビロン捕囚に遭っていた人々でした。ユダ王国のユダヤ人たちがバビロニア地方に捕虜として捕らえられて強制移住させられた事件です。ユダヤ人たちはもう光を見ることもできない、惨めで苦しく、悲しい毎日を送っていたのです。自分たちの国はつぶされ、捕虜として拷問に会う日々、周囲で異教の神々が崇拝される中で、何度も信仰を失いそうになりました。すでに神は自分たちのことを見捨てられたのではないかとさえ思っていたのでした。しかしその一方で、「神はいつか、私たちを救い出してくださる」と祈りをもって信じ続けてきたのでした。そして「私たちの神は、光を造られた神だ!」と告白するに至ったのです。それが「神は言われた。『光あれ』」という言葉として記されたのです。

 先ほど「天地」の「地」は私たちの人生を譬えられているのかもしれませんとお話しました。「混沌」というごちゃまぜの場所、平坦ではない道を歩いて行くのが私たちの人生です。そしてそれは「深淵」、底なしの深み、泥沼は「死」の象徴なのです。そしていつも人間は不安と隣り合わせ、苦しみを味わいます。そんな私たちに神は「光あれ」と言われたのです。

 光は神そのものです。いつも神が共にいてくださるしるしです。神は言葉を用いて優しく造られたものに語りかけてくださるのです。そして神はお造りになったすべてのものを決して見捨てられたりはされない、愛し続けて居られるということが「光」という言葉に秘められているのです。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 神は光を「良し」とされました。「良し」というのは何の非の打ちどころもない美しいさまです。世界の創造の第1日目に「光」が創造されたことは何と喜ばしく、何と感謝なことでしょう。

 けれども光はいつも闇と背中合わせに存在しています。私たちは光の射すところを歩いていると思っていたら、いつの間にか闇の中にはまってしまうこともあるのです。また、長い闇のトンネルから抜け出すことが出来ないでいることもあります。しかし神は私たち人間が光の中を歩いてほしいと願っておられました。ですから神は私たちを闇の中にそのままにして置かれることはないのです。夜明けの来ない夜はありません。一日も明るい朝が来なかった日はありません。それと同じように神は私たちの人生にも光を点してくださいます。今、壁にぶち当たったり、この先どうにも進めそうにないと思っている人がこの中にもいるかもしれません。しかし神は私たちを希望で満たすために、この世界の創造にあたって光をお造りになったのです。ですから今は闇の中にいてもそのままで終わることはなく、必ず光の中を歩む日がまた来るのです。

 そして神は私たちにイエス・キリストという救い主を与えてくださいました。神は私たち一人ひとりを照らすために主イエスという光をこの地上にお送りくださいました。ある時主イエスはこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。そして神の業は今も続いているのです。詩編139:11に「闇の中でも主はわたしを見ておられる。/夜も光がわたしを照らしだす」とありますが今日も神は、イエス・キリストを通して私たちに光を点し続けてくださっているのです。そして神の光は「死」という闇をも超えるのです。

 「神は直線を描かない」とは上智大学でお教えになった時永正夫神父の言葉です。今日のヨハネ福音書にもありますように、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。私たちの人生は山あり谷ありです。曲線を描いて前に進んだり後ろに下がったり、上がったり下がったりして当然なのです。神は直線を描かれないからです。しかし主イエスが私たちを導いてくださる。主イエスが先頭に立って私たちはその後を続いていくことによって神の光のあるところに到達できるのです。


 
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