今日、10月31日は宗教改革記念日です。マルティン・ルターの宗教改革は1517年10月31日にドイツで始まりましたので、今年はそれから504年ということになります。1517年のこの日、カトリック教会の司祭であり、ヴィッテンベルク大学の聖書の教授であったルターは「95箇条の提題」という当時の腐敗しきった教会当局を批判した論文を教会の扉に貼り出しました。
ルターは1483年にドイツの農家に生まれました。大学に入学して法律を学んでいましたが、同級生で親友が溺れ死んだ出来事、また、ルター自身も落雷に遭っていのちを落としそうになったことから、いのちとは何か、人生の意味とは何かと考えるようになりました。彼は修道院に入り、神学を学び始めたのです。
ルターは聖書に向き合って学べば学ぶほど、当時の教会の信じていたこと、またあり方に疑問を持ち、それを批判しました。例えば教会では、死後の世界に天国と地獄の中間に煉獄があり、人が生前、どれだけの善い行い、悪い行いをしたかによって、どこにいくのかが決まるとされていました。天国に行けるのは聖人と認められた人のみで、一般民衆は煉獄に行くことになるというのです。煉獄は生きている時に悪い行いをした人の魂を、火で清めるところです。魂が火で清められた後に天国へ行くことができるとされます。
しかし、一日も早く天国に行ける方法が一つだけあるとされていました。教会が売っている贖宥状を買えばとのことでした。御札のようなものです。それを買うと、煉獄の期間が短くなり、場合によっては、すぐに天国に行くことが出来るだろうとさえいわれていました。人間の心は弱いものです。苦しまずに天国に行きたいと思う人たちがたくさんいたのです。飛びついて買う人たちがいました。しかしルターは、贖宥状を批判しました。なぜなら煉獄の存在など聖書に一行も記されていないからです。また、彼は教皇の権威を否定しました。現在のカトリック教会の教理においても、ローマの教皇は使徒ペトロの後継者、神の代理人とされています。しかし聖書からは教皇の権威もまた根拠のないものなのです。
聖書は、主イエスが人間は平等である、と強調していたことを私たちは知っています。当時の人たちは自分用の聖書を持っていませんでした。聖書はミサ中に、ラテン語で朗読されるのを聴くものだという認識がなされていました。ルターは聖書のドイツ語翻訳を手がけます。贖宥状の話に戻りますが、それは高額でそれに応じて天国に行ける可能性が増えますが、単純に考えれば貧しい人は救われないことになってしまいます。
ドゥカートという単位があります。1ドゥカート=約3.5グラムの金貨です。贖宥状の値段は、殺人が8ドゥカート、偽証が9ドゥカート等となっていたようです。これでは「貧しい人は幸い」と主イエスがおっしゃったことと正反対です。このようにしてルターは、聖書に照らし合わせて当時の教会を批判しました。彼は教会当局から破門されて、迫害を受けるわけですが、ちなみにカトリックそしてルターの宗教改革によって誕生したわれわれのプロテスタント教会は20世紀に入るまでいがみ合っていました。しかし、現在では教会一致運動の成果もあり、これまでになく両教会は歩み寄っています。
そのころルターは人間が救われるためには、まったく何も持っていないと考えていました。つまり人間は「空の手」しかないのです。ルターは修道院に入って一生懸命修行をした。でもやってもやっても救われた実感を持つには至らなかったのです。彼は修業することさえ、自分自身のためにやっていて、これは神や他者への奉仕ではないと考えていました。人間は神に対して何の奉仕も出来ない、そのようにちっぽけな自分をルターは見つめていたかもしれません。ありのままの自分自身をただ、神の一方的なによって救っていただくしかないのだと考えるようになりました。日本基督教団信仰告白の一節には「ただキリストを信ずる信仰により」と、「ただ」という言葉がつけられています。それは人間は善い行いを積むことではなく、「ただ信仰のみ」が人間を救うのだというルターの考えていたことに一致するといって良いと思いますが、ルターは聖書をドイツ語に翻訳する際に、「信仰による」と書いてあるところに、「ただ」「のみ」という言葉を加えていきました。ルターが聖書を学んで行き着いたところだといって良いでしょう。神からの一方的な愛。このような恵みをいただくことによって、自分自身への深い反省、他者に対する思いやりも出てくることを、ルターは言いたかったのです。
ルターにまつわる1つのエピソードがあります。
ある晩のこと、ルターが一人で、聖書を読んでいると、秘かに自分に迫ってくる、影のようなものを感じました。しかし彼は、聖書を読み続けます。すると、その影のようなものは、近づいてくるような気がしました。その時、ルターは思ったのですね。
「あぁ、これは、私を、神の御言葉から遠ざけようとする、悪の力だ」と。
ルターは、ハッとして、机の上のインク瓶を、壁をめがけて投げつけたのです。そのインクの跡が、今でも壁に、残っています。
ルターは、イエス・キリストの十字架の救いを、失わないように隙を見せない人でした。悪や罪と戦う姿勢を、生涯持ち続けました。
今日の箇所には「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」とあります。これは教会ではなく、パウロがテモテという個人に宛てた手紙です。テモテはパウロが「ぜひ伝道旅行に同行してほしい」と熱望するような信仰の篤い、熱心な若者でした。「ただキリストのみ」ということを忘れない信仰者であったのでしょう。テモテのおばあさんロイスもお母さんのエウニケも熱心なクリスチャンでした。しかし、彼とて人間です。彼も何らかの挫折を経験し、意気消沈していることを知ったパウロはテモテに励ましの手紙を書きます。今日私たちに届けられたのはその一部分なのです。パウロはテモテに挫折を経験しようと、厳しい現実にさらされても、人間は神が救い出してくださるから安心しなさいと勇気づけます。そして今日の箇所です。
「この書物」というのは旧約聖書のことです。新約聖書はまだありません。神の救いはこの旧約の時代から新約の時代を通って、現在まで連綿と続いています。そしてパウロも、21世紀に生きる私たちも聖書に記されている神の言葉に力のあることを信じています。
皆さんには愛唱聖句(好きな聖書の言葉)があるでしょうか。1つでいいですから、皆さんの心に刻まれる聖書の言葉を見つけてほしいと願います。ルターは聖書にたくさんのメッセージが記されてあることを再認識しました。それを探すためにもう一度私たちが聖書に向き合うならば、きっと皆さん一人一人に語られている神のみ言葉に出遇えることでしょう。
今日私たちの教会に一人の信仰の友が与えられました。OKさんはご両親の信仰のもとにH教会で幼児洗礼を受けられ、S教会で堅信礼を受けられました。この時の信仰告白を導かれたのは鈴木正久先生でした。それから牧師となるお連れ合いと結婚されて、ただキリストひとすじに信仰生活を恵みのうちに送って来られました。まさに今日の箇所にあるように、幼い日から聖書に親しみ…ご自分が確信した道を離れずに歩んで来られた方です。Oさんをお迎えして私たちもともに信仰にある喜びに生きたいと願います。