皆さんは、何かのことで決断を迫られた時に、スパッと決められているでしょうか。あるいはいつまでもぐずぐず決められない性格でしょうか。「ぐずぐずする」ということは、しなければならない決断を先延ばししているとも言えます。私たちのこの世で生きる時間は限られています。その中で決断できる人とできない人では神から与えられた時間を有効に使うという面でもおのずと違いが生じてきます。
私はいつも自分に言い聞かせてきた言葉があります。
「やらないで後悔するより、やって後悔しよう」と。
もし皆さんが決断を迫られた時に、それを「やらなかったことを後悔しそうだ」と感じるならば、ぜひやってみるべきです。また逆に「やっぱりできない」という思いが前に立つのであれば、きっぱりそれを〈やめる決断〉をすることです。そのことはそれ以上考えるのもやめるほうがいいでしょう。そこでくよくよしてはいけません。そこでそれを止めるという行為は、皆さんが潔く次に進むためだからです。
「天の声」を聞いたことがあるでしょうか。心の中から言葉が湧きあがって来るような時があります。神が私たちに示してくださる時もあります。そういうことが起こった時にはその声に素直に従うことも良いかもしれません。心の声に従うと良い展開になっていくことは案外多いものです。
今日の箇所は、主イエスが大勢の群衆や弟子たちとともにエリコの町から出て、いよいよ十字架の待ち受けるエルサレムへ向かおうとされた時の記事です。バルティマイという男が「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」(47節)と叫ぶのです。「ダビデの子」というのは、救い主(メシア)は旧約のダビデ王の子孫から生まれると預言されていたため、「救い主」という意味です。「救い主イエスよ」とおそらく渾身の叫びをあげたのでしょう。バルティマイは視力を失い、「しょうがい」を負っているために差別され、それによって社会の片隅に追いやられて職業もなく、ただ物乞いをするほかはないどん底の生活を強いられていました。彼の持ち物は、たった一枚の上着のみで、エルサレムに向かって旅を続ける人々がこの町を通る時に、彼に施してくれるのを待ち受ける毎日でした。彼はおそらく何のために生きているのか、将来に希望も持てず暗く出口のない毎日を送っていました。そのバルティマイが即座に決断したのです。主イエスに自分の眼が見えるようにしてもらおうとしたのです。
「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」
その時、主イエスが彼の横をお通りになりました。目が見えないので直接主イエスのお顔を見ることができないけれども、群衆の物音や人びとの話し声から主イエスが来られるのが判ったのでしょう。彼は力を振り絞って叫びました。
「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」。
これに驚いた主イエスの側近たちは彼を叱りつけて、黙らせようとしました。しかしそれでもバルティマイの叫びはおさまろうとはしませんでした。
「ダビデの子イエスよ、憐れんでください」。
ある聖書はここをこう訳しています。
「わたしの苦しみを分かってくれ」。
どのような理由で周囲の人々は彼を黙らせようとしたのか福音書には書かれておりません。しかしこのようなことが考えられるのではないでしょうか。それは苦しむ人々への鈍感な心です。決して周囲の人々に悪意があったわけではないかもしれませんが、この社会のどん底に落とされた男の気持ちなど、分からなかったのでしょう。また主イエスはこれからエルサレムに向かおうと言う時に、この薄汚い男のことなどに構っていられないのだ、という「気遣い」もあったのかもしれません。主イエスのすぐそばにいる人間たちが主イエスの周囲にいると言うだけで何か特権を得ているような気持ちになっていたのかもしれません。いずれにしても一人の人間の悲しみや苦しみに向き合う心はない人々でした。
けれどもバルティマイにしてみれば、このチャンスを逃してはならない、自分はいつまで経っても出口の見えない暮らしを続けていかねばならないと思っていたはずです。今日食べるものにもありつけない、人々からは軽んじられ、人間扱いされることもない、悲惨なこの日々から救われたい、そのような思いが大きな叫びとなっていったのです。周りの人々が制止するにもかかわらず、何度も、何度もバルティマイは主イエスに叫び続けました。窮状を訴え続けたのです。
その時主イエスは立ち止まりました。そして「あの男を呼んで来なさい」と言われました。神が地上に救い主を遣わされる最大の目的は、苦しむ人々への共感です。人間の悲しみ傷つくその姿を神は放っておかれないのです。
主イエスの深い愛にバルティマイはどうしたのでしょうか。
「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(50節)とあります。この上着を脱ぎ捨てることに注目してみたいのですが、これは、これまでの彼の不幸な日々の生活をすべてそこに置いて、自分の身ひとつで主イエスのもとに来たということではないでしょうか。これまで弟子たちが主イエスに従う時に職業や家族や自分の持てるものをすべて捨ててイエスに従ったのです。バルティマイの持てるものと言えばこの「上着」一枚しかなかったのですから、彼は「すべて」を手放して主イエスのもとに来たのです。しかも「躍り上がって」でした。また「上着」は生活のすべてのものを表わしているでしょう。過酷な気象条件のある地方では「上着」なしでの生活はあり得ません。つまり上着を「脱ぎ捨て」たのはいのちを賭けてイエスに従ったということなのです。
主イエスは「何をしてほしいのか」と言われました。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。素直に率直に自分の願いを申し出ました。先ほどまで「ダビデの子」と呼んでいたバルティマイは主イエスのことを「先生」と呼んでいます。これはすっかり自分を主イエスに委ねていることを示しています。主イエスは彼の魂の底からの叫びをはっきりと聞き取りました。どん底の中から「わたしの苦しみを分かってください」という声を主イエスは受けとめられました。そうして主イエスは言われます。「あなたの信仰があなたを救った」。すぐにバルティマイの目が見えるようになったのです。バルティマイを救ったのは彼の「まっすぐな心」でした。全面的に主イエスを救い主として受け入れ信頼する気持ちでした。そしてバルティマイは52節の終わりに記されてあるように、
「なお道を進まれるイエスに従った」。
つまりこのあと主イエスの歩まれる道を一緒に従って行くのです。
旧約聖書学者の雨宮慧先生は、この箇所について「神は、人々の妨害を利用して救いをもたら」すとおっしゃっています。つまり先生によれば「道のかたわらに座っていた盲人」が主イエスに「道の上」に呼び出され、目が癒される。そして彼はイエスに従う「道」を歩んでいくのだというのです。
今日の箇所から私たちが学ぶことは、自分の気持ちをストレートに神に告白しているか、と言うことです。たとえそうしなくても神は私たちのすべてをご存知です。しかし、そうすれば祈ることは必要なくなるでしょう。私たちが祈るのは神との対話であり、自分の叫びを神に受けとめていただくのです。ともすれば私たちは祈る時に、美しい言葉を並べ立て、格好いいことしか言わないのではないでしょうか。人前で祈る時に、率直に神に向かう心を祈りに込めるよりも、人に聞かせるための祈りをしていないでしょうか。もっともっと自分をさらけ出して、バルティマイのように「わたしの苦しみをわかってください」と素直に助けを求めるところに神はそれを受けとめて、急いで助けに来てくださるのです。私たちの喜怒哀楽というものを神に打ち明けるべきです。そのより一層神の大きな存在を私たちは経験することが出来るのです。
今日の箇所から〈叫び〉をあげることの大切さを学ばされます。私たちは落ち込んだり、失望したり、悲しくなるような経験を人生の中で無数にするわけですが、その時、私たちは黙っていてはいけないのです。うやむやにしてはいけないのです。心の中にその思いを閉じ込めていてはいけないのです。「主イエス、わたしの心の苦しみをわかってください」と叫んだバルティマイは人生を180度転換しました。私たちも神に、主イエスに心の底からの〈叫び〉をあげる者になりたいのです。