代々木上原教会の皆様。共に礼拝をまもれますことを感謝しています。皆様に神さまの祝福が豊かに在りますように。
私には2人の子どもがおります。長男は11歳。小学5年生です。次男は4歳で年中です。
長男は、生まれたころから体が大きく、現在157cm、体重も53キロ。私は今、高校の教員をしていますが、高校生の女子と同じような体の大きさになってきました。小さいころから食べることが好きで、机に食べ物を置いていたら、いくらでも食べる子どもでした。手足口病になった時も、口の中が痛く、痛いと泣きながら、食べるそのような子どもでした。
それとは違い、次男はあまり食に関心がない。一口二口食べたら、もういらないと言って、食べなくなる。その偏食があまりひどいので、「そんなんだったら大きくなれないぞ!」と叱った後、大きくならないから食べなければいけないという叱り方が違ったと反省しました。同時に、大きい方が良いという価値観が私の中にはあることを知りました。
私自身親から、大きくなることを求められました。勉強して少しでもレベルの高い学校に入るように。そして安定した職業に就くように。そうやって、大きいことはいいことだという考え方が刷り込まれてきたのだと思います。
しかし、年を重ねて思うことは、肉体的なことだけでいうならば、人は小ささの中で生まれ、気が付かないうちにピークを迎え、そして少しずつ、少しずつ小さくなっていく。つまり、人は、いつも自らの小ささを感じて、生きているということです。そうであるとするならば、私たちにとって大切なことは、どのようにして大きくなるかということよりも、自分の小ささとどのように向き合うかということの方が大切なのかもしれません。
それは肉体的なことだけに限らないでしょう。霊的にも精神的にも自らの至らなさ、小ささは年を重ねたからこそ日々感じるものであります。姦淫の罪を犯して現行犯で捕えられた女性が、イエスの前に連れてこられた時、主イエスは「罪を犯したことのないものがまず石を投げなさい」とお語りになりました。それに対してそこにいた人々は、年配者から順に去って行ったと聖書は言います。年を重ねたら、精神的に、霊的に大きくなるのではない。むしろ、年を重ねるにつれて、自らの小ささを感じるのであります。
大きくなるために勉強をすることを子どものころ親から求められましたが、今となってはわかる。勉強するのも、大きくなるためではない。本当は勉強すればするほど、この世界の大きさを、そして、自分の小ささを知ることになる。勉強するのは大きくなるためではなく、小ささを認めるためだと思うのです。
なぜ、これほどに大きい方が良いと考えるのか、それは小さいと不安だから、生きていけないと思うからだと言えます。
そのような私たちに今朝、主イエスはお語りになります。「小さな群れよ。恐れるな」
小さいことは怖いことです。だから私たちは小さくあろうとするのではなく、少しでも大きくなろうとします。小さいものの声は聞き捨てられ、大きな人の声が響く世の中です。小さいものは隅へと追いやられる。そのような社会的な構造となっていることを私たちは知っています。そのような構造を知っているが故に、小さいことに不安を覚えます。良くも悪くも大きい者は、何をしても目立ちます。だから誰からも忘れられることはないでしょう。しかし、小さいということは、忘れ去られるし、簡単に消されてしまう。軽く扱われ相手にされない。認めてさえもらえない。
私たちの普段の悩みは、大きいという悩みより小さいという悩みの方が圧倒的に多いのです。
そのような私たちに主イエスは今朝お語りになります。「小さな群れよ。恐れるな」主イエスは、弟子たちの群れを「小さな群れ」とお語りになっています。そして「恐れるな」と言われるのです。まず確認をしておきたいことは何よりも、小さな群れには恐れがあり、悩みがあるということを他でもない主イエスはよくご存知であられるということです。主イエスがそのことをご存じなのは、主イエスが誰よりも小さくなられたからです。だからこそ小さいものとして小さいものの不安を知っておられるのです。
かなり前の話ですが、ある政治家が「妻がパートに出たら25万円稼ぐ」と話したことが批判の的となりました。その言葉についての批判はともかく、明らかに小さいものの悩みを知らないが故に出てくる言葉であることが批判されたのでした。またある政治家が「カップラーメンは300円?400円だったでしょうか」と発言し、それもまた、カップラーメンを食べたことのない大きいものの発言だと批判された。
これらはご本人が小さいということを経験されていないからだと思います。小さいが故に悩まざるを得ない。不安を覚える。そういう現実を自分のこととして知っている人の発言ではない。主イエスは言われる。「小さい群れよ。恐れるな」主イエスは小さくなられたからこそご自分のこととして知っておられるのです。今この時、小さき故に、不安を覚えている者の不安を他でもない主イエスは知っていてくださいます。自分は小さいと嘆くものの嘆きを、小さい私たちの不安を、覚える私たちの悩みを主イエスがご自分の身を持って知っておられる。そしてそのことを踏まえつつ、主イエスは小さく弱い者たちに「恐れることはない」とはっきりお語りくださっているのです。
「小さな群れよ。恐れるな」これほどまでにはっきりと主イエスが私たちにお語りくださる理由はなんでしょうか。 本日与えられた御言葉の冒頭で「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」そのように主イエスは言われています。
「何を食べようかと思い悩むな」と言われます。私たちは何を食べようかと悩みます。コロナが収まったら、友人と食事をしようと話をしながら、何を食べるかと盛り上がっています。もしかしたら皆様も、説教を聞きながら、今日のお昼ご飯の心配をされている方がおられるかもしれません。ただ、主イエスがお語りになる「何を食べようかと思い悩むな」という言葉は、私のような悩みとは違います。今の時代のように沢山食べるものがあって、その中のどれにしようかと悩んではならないと言われているのではないのです。
「命のことで何を食べようかと思い悩むな」と言われます。命を守るために食べなくてはならない時代でありました。食べるものがない時代であります。その日の命をどうやってつなごうかと悩んでいるものに主は「何を食べようかと思い悩むな」とお語りになっているのです。服に関してもそうであります。私たちは毎朝、持っているたくさんの服の中からどのような服を着てくるか悩みます。しかし今朝主イエスがお語りになっていることは、そういう悩みではないのです。着るものがたくさんあって、その日の気分で服を選ぶという時代ではありません。必要最小限の衣服しか持っていない、あるいはその日着るものがないものに主は「何を着ようかと思い悩むな」とお語りになっているのです。
つまり、ここで思い悩むなと主イエスがお語りになっているのは沢山あってどれにしたらよいか決めかねるという大きいゆえの思い悩みではなく、なにもなくてどうしたらよいか分からないという小さいが故の思い悩みであることがわかります。とても切実な思い悩みなのです。
その切実な思い悩みを持つ小さきものに「烏のことを考えてみよ。野の花を考えてみよ」と主イエスは続けてお語りになります。主イエスは烏や野の花を神様が養い装っておられることへと私たちの目を向けさせられます。そして、私たちの命も体も神さまが養い装ってくださるのだとお語りになるのです。
続けて命のこと体のことで悩むのは「世の異邦人が節に求めているものだ」と主イエスは言われます。ここで言われる異邦人とは神様を信じていない人ということです。神様を信じることができないから思い悩むのだと言われるのです。神さまへの信頼がないから小さきことに恐れを覚えると言われるのです。
そのような意味で本日、主イエスが私たちにお語りくださることは実に単純で、しかし最も大切なことであります。神さまを信頼しなさい。神様を信頼していれば自らの小ささを嘆く必要はない。思い煩うこともない。小さいことは怖いことではある。でも、あなたを守っているお方がおられるのだから恐れることはない。主イエスはカラスや野の花のように小さなものに目を向けさせ、その小さきものに目を留めておられる神様を信じなさいと言われるのです。
その上で「ただ、神の国を求めなさい」と言われます。見事な、視点の転換をここで主イエスはお語りになっています。小さいがゆえに「思い悩む」という消極的な在り方から、小さいがゆえに「神の国を求める」というより積極的な在り方へと導いておられるのです。神の国とは、神さまのご支配ということです。この世のものを求め、この世の大きさを頼りとし、この世の価値観に支配されて思い悩むような生き方ではなく、小さいことを知っているのなら、ただ神こそを信頼し、神こそを頼りとし、神こそを必要として生きることを、勧めておられます。一言でいうならば、自分自身をただ、神様に委ねて歩むということであります。それはつまり、自分はできないという小さきを嘆くことではなく、むしろ自分はできないからこそ、委ねるのだと、小さいからこそ委ねるべきお方に委ねるのだという、小さきを誇る生き方をここでは勧めてくださるのです。
このような物語があります。3人の旅人が命の水を求めて旅をしていました。その水を飲んで永遠に生きたいと願っていたのです。
1人目は戦士でした。彼は命の水と言うくらいだから、それを守っている兵隊がいると考え、甲冑を身につけ武器を携えて旅に出ました。彼は力ずくで命の水を手に入れるつもりだったのです。
2人目は魔法使いの女でした。命の水と言うくらいだから不思議な魔法がかけられていると考えました。ですから彼女は魔術の衣を着て、魔法の力で命の水を手に入れようと旅に出かけました。
3人目は商人でした。彼は命の水と言うくらいだからとても高価に違いないと考えました。彼は服のポケットや財布にありったけのお金を詰め込みました。お金で命の水を手に入れるつもりだったのです。
目的地に着いたとき3人はびっくりしました。命の水はほんのささやかな、キラキラ輝く湧き水でした。兵隊もいなければ、魔法もかかっていません。もちろん無料でした。しかしそれを飲むには条件がありました。跪かなければならないということです。3人の旅人は困りました。戦士は甲冑を着けていますので身をかがめることすら出来ません。魔法使いは魔術の衣を着ていました。ぬらすと魔力が失われてしまいます。商人はポケットにお金を詰め込んでいるので、頭をちょっとかがめただけでも水に落ちてしまう。
誰もが身に着けているものが邪魔になって命の水が飲めそうにありませんでした。解決の方法はたった1つだけです。戦士は甲冑を脱ぎ、魔法使いは衣を脱ぎ、そして商人はお金の詰まった服を脱ぎ捨てました。その上で、つまりそれぞれが裸になって跪き、驚くほどの恵みに溢れている、その水を飲むことが出来たのです。
ジョフリー・ダンカンと言う人の書いた「命の水」と言う物語です。これは私たちに1つの示唆を与えてくれます。甲冑とは力のことです。魔法とは才能のことです。またお金とは努力のことです。この物語が語るのは、私たちが命の源である神様の前に進み出る時、私達はそう言ったものを脱ぎ捨てなくてはいけない。どれだけ大きいかということよりむしろ、小さきものでないと命の水に預かれないことが表されているのです。
「思い悩むな」とお語りになる主イエスは「空の鳥」と「野の花」を示して思い悩む必要がないことを告げられました。他の福音書では「鳥」と記されているのにルカ福音書では「カラス」と記されていることに気づきます。
カラスという鳥は正直に申しまして不気味ですし、汚いイメージが強いように思います。例外はありますが、旧約聖書においてもカラスは不気味な忌み嫌われた鳥として描かれていることが多いようです。そのカラスのことを考えよと主イエスは言われます。カラスのことについて考える。そうすると考え付くのは、それが不気味な存在で、汚らしく、そして嫌われた存在であるということです。主イエスは空を飛ぶ小さなかわいらしいきれいな鳥を指して、あの鳥も神様の守りの中にあるのだとおっしゃっているのではなく、人々から忌み嫌われているカラス、必要ないと思われているカラスですら神様の養いの中にあるではないか、と言われているのです。
そのカラスと「小さい群れ」を併せて考える時、続く32節の御言葉「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」という言葉の深さがよく分かります。人々から嫌われる存在のカラス。人からは認められないカラス。そのカラスさえも神様は愛し、守っておられる。神様はカラスを認知しておられる。それと同じように小さな群れ、弱い存在の者たち。人々はその存在を忘れてしまうかもしれない。人からは認められないかもしれない。しかし、神様が認めておられる。認知しておられる。無力だとしても大切だと言ってくださる。神の国をくださるとさえ言っておられる。だから、小さい群れであることを「恐れることはない」と言われるのです。たとえ小さくても、弱くてもあなたの神があなたたちのことを認めておられるのだから、人々からあんなにも嫌われているカラスでさえ神さまは認めておられ、必要なものを与えておられるのだから、小さく弱いことを「恐れなくてもよい」と言われるのです。
「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と主イエスはおっしゃいます。「喜んで」と言われるのです。小さな群れだけどしぶしぶ、ということではない。嫌われ者だけど温情でということでもない。喜びをもって、小さな群れに神の国をくださるのです。何の役にも立たないものを喜んで認めてくださっている。いや、主イエスの弟子たちの作る小さな群れは、どういう群れだったか思い出したら良く分かる。その小さい群れは、役に立たないどころか、主イエスの足を引っ張る群れでありました。主イエスを売ったのは、主イエスの弟子でした。主イエスを見捨てたのは、弟子でした。そのような足を引っ張るようなものに喜んで神の国を与えるとお語りになっているのです。
本当に小さなものを、取るに足らない者を、いや、主イエスを裏切る者を、喜びをもって迎えてくださる方がおられる。代々木上原教会は、そのことを日々証しているのです。
聖書は私たちに語っています。神の御子イエス・キリストというお方は、神と等しい身分であられながら最も低きにお下りになられ、十字架にお架かりになられました。誰よりも小さきことの意味、弱きことの意味を知っておられるのは主イエス・キリストであられます。私たちが小さきを覚えるその場所に小さくなられた主が共におられます。そしてその小さきものを贖われるために十字架の死を死なれ、復活されたのです。まさに、その十字架と復活の出来事とは、本当にあなたに、私たちに「喜んで神の国を私たちにくださる」ということを神さまがお示し下さった出来事であります。
小さい私たちは絶望ではなくむしろ、希望を持って歩むことができます。小さいがゆえに悩むことはない。恐れることもない。 私たちの小さな群れは、この世から忘れられていくことがあるかもしれません。しかし、主イエスは言われます。「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と。この世が忘れても神様は小さい私たちをお忘れになることは決してないのであります。神の国を体現する代々木上原教会は、小さい故に不安を覚えるあなたのことを喜んで受け止めるために、この地に建てられているのです。
「小さな群れよ。恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」キリストの言葉です。この会堂に掲げられている主イエス・キリストの十字架は、私たちの小ささの中でこそ輝きます。
私どもは小さなものです。それ故に不安を覚えることもありますし、恐怖を覚えることもあります。しかし、主よ。この日あなたの御子イエス・キリストの御声が、私どもの心の深くでこだましています。小さな群れよ恐れるな。恐れる私どもの恐れをあなたが取り除いてくださいますように。大きな働きを為すことよりも、小ささの中にあるあなたの恵み深さを覚えつつ、小さな働きを続けていくことが出来ますように。
この地に建てられた、代々木上原教会がこの地で主のご栄光を表し御言葉に仕えるお働きをするために必要な全てをお与えください。今、あなたの愛を求め、あなたの恵みを求め、あなたの真理を求めている求道中の方々に、喜んで神の国を差し出してくださるあなたのその招きに、手を伸ばし、受け取る勇気をお与えください。