北海道・函館にあるトラピスト修道院の中では、3か月に一度くらいの割合で労働奉仕の持ち場が変わるということを本で読んだことがあります。炊事係、洗濯係、農作業、酪農、食品製造、販売、最近は修道院にもインターネットが通っていますのでその係など。それらの日常の持ち場が短期間のうちに変わるのです。
それはなぜかと言いますと、「神よりもその仕事を愛してしまわないため」なのだそうです。熟練して長い間、同じ仕事をしているとこれは私にしかできない業のように慢心してしまって、他の人が入る余地も無いし、そのようなところに「神の栄光は表されない」からだと知りしました。思えば私たちにも神よりも優先しまっていることがたくさんあるのではないでしょうか。
今日私たちに届けられた福音には、「自分だけ」「自分たちだけ」の特権といいますか、自分がこれをしたならば、右に出る者はいないというような強い意識にとらわれている弟子の姿が出てきます。弟子たちは、主イエスの名を使って悪霊を追い出している者を目撃しました。おそらく「自分たちはイエスの直弟子だ」「自分たちはイエスのそばに仕える者だ」、そして「自分たちは正統派である」といった思いがよぎったのでしょう。そのような思いから弟子たちはイエスに「あのような連中をどうにかしたい」と訴えるのです。けれどもイエスはすぐさまそのような思いを捨てるように促すのです。
主イエスが弟子たちだけを正統派として、お墨付きを与えたことはないのです。今年は礼拝においてマルコによる福音書から聴き続けていますが、この福音書の中で弟子たちがひじょうに人間臭いというのか、強欲な面が強調されているようにも思います。今日の箇所はすでに主イエスが2度、この後受難を受けることを予告した後のことです。にもかかわらず、今日の前の箇所ですが9章33節から誰が一番偉いのか、というような論争をします。
そして10章のところでは、子どもたちを触れてほしい(祝福してほしい)と主イエスに願った親たちを、弟子たちが横から出てきて叱るというようなことも記されています。主イエスがそのような弟子たちを咎めるというようなことも記されてあります。もう十字架への道が始まっているのです。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか」(9章19節)というため息にも似た主イエスの心の内が垣間見えるのです。
主イエスが願ったのはすべての人が救われるということでした。それは内向きになって「自分だけ」「自分たちだけ」のことではない。神の国の福音はすべての壁を壊して、あまねく拡がっていくものであることを、弟子たちは理解していなかったのです。福音の教えは主イエスのお姿を見れば一目瞭然です。自分中心ではない、相手が生かされていくように行動されたのです。常に相手の心に自分の心を合わせるようにして、その人がその人として生かされていくように努められました。あろうことか自分の利益のために福音の教えを使うことは主イエスを最も悲しませることでもありました。
主イエスは壁を造って人びとが来るのを阻止するのではなく、その壁を壊して受け容れることが大切だと3つのことを教えられました。
第1に、先ほども引用しましたが、39節の「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」この人たちはどのような人たちかは今日の箇所からは知ることができません。しかしイエスはこの人たちに敵対意識は持っていないことがわかります。イエスの名を使っている人たちなのだから、イエスの悪口は言えないというのです。
第2に40節です。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とひじょうにイエスが心を開いてることがここから判ります。
続く41節です。第3に、「はっきり言っておく」。以前にも申し上げましたが、イエスが「はっきり言っておく」と仰せになった時は大切なことが語られます。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」とあります。イエスはこの3つの言葉を通して他者に心を開くことを教えておられます。
ある時、主イエスはニコデモに対して主を信じる者が、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)と言われました。そして迷い出た一匹の羊を見つけた時、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)とも言われました。これはイエスの心からの言葉です。皆さん一人ひとり、どのような人をも滅びることを主は願っておられないのです。
42節、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は……」とあります。
「小さな者」それはイエスを信じる者のことです。
この言葉は、「わずかな」「少ない」「狭い」というような意味を持った言葉です。新約聖書の中では小さな「からし種」のことや、また、ザアカイが小柄な人であったというような記述にも使われている言葉です。
主イエスの視点は常に大きな者、それも権力を持った者、経済的に豊かな者、名を馳せているような者に向けられていませんでした。いつも「小さな者」たちに向けられていました。イエスの周囲には苦しい生活を強いられている人びと、いつも抑圧された人びとがいました。
そして「つまずかせる」という言葉は、罠を仕掛けるとか、動物を捕獲するときに足を挟むような罠です。元々そういう意味から、信仰を誤らせるとか、罪に引き入れるとか、神から引き離してしまうことを意味しています。これも弟子たちに対しての警告といってよいと思います。43節以下に厳しい言葉が並びますが、小さな者たちを大切にして、そして自分をもつまずかせるものからすべて決別しなさいと教えられるのです。
私たちも、また私たちの教会も今日の箇所での弟子たちのような「自分だけ」「自分たちだけ」というような思いにかられる誘惑は常にあると言ってよいと思います。主イエスのまなざしの先に常に「小さな者」を大切にするということがありました。私たちの教会は「一杯の水を差し出す教会」にならなければなりません。「一杯の水を差し出す教会」とは、いつも小さき者たちと歩みを共にし、「常に与える」人びとによって形成されている教会です。
私たちはさらに豊かに種を蒔き続けていかなければなりません。私たちは祈ることも大切ですが、祈ることに加えて、行動をしましょう。種を蒔き続けましょう。私たちが人々に贈ったものはみな神の喜びとなり、神はそれをいつまでも憶えてくださることでしょう。神に喜ばれ、祝福されて生きたいと誰もが思うはずです。そうするために今私たちに与えられている神から与えられているものを自分の懐に溜め込んでいてはなりません。なぜなら与えることは私たちの未来を左右する行動だからです。私たちの周囲にいる「小さな者」――それは苦しんでいる人、悲しんでいる人々、差別されている人々、病にあえいでいる人を見捨てず、見放さない私たちの行動が実を結ぶ時、私たちは真に主イエスの弟子となることができるのです。