(新共同訳聖書)
(聖書協会共同訳)
今日、私たちは2年ぶりに教会カンファレンスを開こうとしています。その集いの始めにともに御言葉に聴きました。まずこの礼拝ではローマの信徒への手紙12章から学びたいと思うのです。
いきなり「そういうわけで」という言葉で今日の箇所は始められています。一体どういうわけなのでしょうか。ローマの信徒への手紙は、1章から11章までにキリストにある信仰について宣べ伝えられています。そしてこの12章からそのキリスト信じるキリスト者がどのようにこの世界で生きていけば良いかという勧めがパウロによって記されているのです。ですから「そういうわけで」、キリスト者は、先週も申しましたがイエスをキリスト(救い主)と信じる信仰に救われた私たちは・・・・・・」というような意味です。パウロの言い方を引用しますと「信仰によって義とされる」のです。それを受けてこの12章のところから具体的なキリスト者の生き方について記されているのです。
まず「兄弟たち」と呼びかけられます。今日午後からのセッションで実際に2018年に発行されました「聖書協会共同訳」の翻訳を味わいます。すでに資料も配布されていますが、新しい訳の方では「きょうだいたち」とひらがな表記になっています。もちろんローマの信仰共同体の中には女性たちもたくさんおられたわけですから、そのようなことを明確にするためにあえて「兄弟」という漢字表記を避けているわけです。その次にパウロはこういいます。
「いけにえ」――普段はあまり使わない言葉です。何かいけにえという言葉の響きに恐いイメージを抱いてしまう私たちでもあります。旧約の時代、神の民は神殿に動物を供え、いけにえとして神に差し出すという信仰がありました。しかし私たちは今、教会で動物をいけにえとして献げるということは致しません。なぜなら主イエスが神の小羊として十字架で殺されたことが、イエスご自身がいけにえとなってご自身を捧げられた――それを信じる私たちは、ただ一度限りの十字架での犠牲を見つめながら、もう動物をいけにえとして献げる必要はなくなったのです。
そして今度は私たち一人一人が「いけにえ」となって献げなさいというのです。このような記述について一つ断っておきますが、パウロは決して、「◯◯をしたならば、救われます」「△△をすれば幸せになれるでしょう」と救われるための条件を言っているわけではないのです。もしもそうであればこれはご利益宗教と同じになってしまう。救われるための条件を言っているのではないのです。
話を戻しまして、私たちが「いけにえ」になるということは主イエスのように自分を他者に開いて捧げなさいということに他なりません。これこそあなたがたの「なすべき」「理にかなった」礼拝ですとパウロはいうのです。祝福の源であるのです。私たちキリスト者は週の初めにまず神を礼拝します。こうして主の日に教会の礼拝をともに捧げます。1週間の間にはそれぞれの場所で過ごし、またそれぞれを仕事をし、学びをしているものがともに集うのです。そしてこの礼拝で自分を捧げるのです。ですから「教会は気分がいいから礼拝に行こう」「天気がいいから」・・・「趣味の会は今日はお休みだから 'いっちょ' 教会にでも行こうか」というのではないのです。まず新しい週の最初の時間に神との交わりの時を持つのです。
この「なすべき」「理にかなった」と訳されている言葉は、別の聖書では「霊的な礼拝」とも訳されています。「霊的な礼拝」とは何でしょうか。それは本当との意味で神と私たちとが交差するような交わることのできる礼拝だということです。
日本語で読める聖書がたくさん出ています。中にはヘブライ語やギリシャ語を学んで原典で読まれる方もありますが、そうでなくてもいくつもの日本語で読める聖書を比較することもまた聖書のさまざまな面を知ることができるのです。
この1節のところで、ある聖書は「あなたがたのからだを、聖なるいけにえ、霊的な礼拝としてささげなさい」と訳しています。「霊的な礼拝」というのは神への供物の一つとして考えられています。また他の聖書では、これまで勧められた事柄を総括して「これこそ霊的な礼拝なのです」と結んでいる翻訳もあります。このニュアンス伝わりますでしょうか。これが聖書の面白いところでもあります。いくつもの聖書を読み比べてみてそれぞれ翻訳が違っているところはその箇所を理解するためのキーワードになっていることも多いのですが、それらを知ることは聖書を理解する近道とも言えます。
今日は1節だけをお話しして終わってしまいそうですが、続くところも読んで参りましょう。私たちは神を礼拝して、どんな気持ちを味わっているでしょうか。「心が落ち着いた」「一週間を生き抜くみ言葉が与えられた」など牧師としてよく耳にする言葉です。しかし私たちの礼拝は神の言葉を聴き、聖霊によって自分を新たにしていただくのです。礼拝の中で一番大切な部分は説教ではありません。聖餐でもありません。それは聖書朗読です。神の言葉が記されている聖書の言葉が生きて働くのが聖書朗読の時です。けれども私たちは聖書朗読を聴いても、自分が新しい自分になったというような実感が毎週湧くわけではないし、毎週礼拝を捧げていると形骸化してしまうということがあります。それが私たち心が固くなっている部分です。神は皆さんに呼びかけておられます。「私の言葉に聴きなさい」と皆さんお一人お一人の心の固くなった扉が開くようにノックし続けておられるのです。礼拝が終わった時、私たちの顔がいつも輝くような表情になったらどれだけ素晴らしいでしょうか。しかし現実はそうではない。私たちの過去の経験やしがらみ、知識などが神の語り掛けをしみ通るのを阻害してしまっています。
だから2節でパウロはいいます。
私たちはこの世の考え方、価値観に流されないようにしなさい。流されてしまえばますます神の語りかけはあなたに聴こえなくなってしまうからだと言っているようにも私には読めます。私たちはこの世という大きな川の急流のところに普段から立たされているようなものです。轟音がしてせっかく神が皆さんに語りかけてもそれが聴こえないことの方が多いかもしれません。神の言葉は囁くように語りかけられるからです。ある時には沈黙のうちにも、また身の回りで起こる出来事の中から語りかけられることもあるのです。人間中心ではなく神中心の生き方に立ち返りなさいとパウロはいうのです。
さて、この時代の教会はイエスの十字架から数十年経った頃の共同体で、まだ若い、青い群れでありました。とても熱気に満ちた教会でした。教会といってもまだ組織化・制度化された教会でもないましてや立派な会堂などもない共同体でした。ですから情熱のある教会はとてもいいのですが、それが「熱狂」に変わってしまうこともありました。実に流されやすい弱さがありました。先に救われたものは偉そうに振る舞い、新参者が小さくなっているようなことも見受けられたようです。ですからパウロはいいます。3節です。
聖書協会共同訳では「分を越えて思い上がることなく」と訳されています。私たちが自分を「過大評価」することは、ほとんどないかもしれません。しかし、「思い上がり」や心の隙が神と人(縦の線)人と人(横の線)、を壊してしまう。よく神と人、人と人の線が十字架を造っていると言われますが、それを壊してしまうことがあるのです。昔の教会にも現代の教会にもあるのです。しかしそのような弱さや欠けのある私たちですが、そのような私たちも「キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです」と5節にありますように、今は私たちがキリストの体とされているという光栄に預かっています。私たちにはさまざまな恵み、賜物が与えられています。「私たちに与えられた恵みによって」それを惜しみなく献げ合いながらキリストの体なる教会を喜んでともに形づくっていきましょう。