主イエスはご自分の人生の最期が、どのような結末になるかと言うことをご存知であったようです。
今日の箇所の31節のところに「それからイエスは、人の子(イエスご自身のこと)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて(捨てられて)殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあるからです。
主イエスのお生まれになる以前に旧約の預言者たちが迫害され、また洗礼者ヨハネが殺害されたことをイエスは知っていましたので、主イエスも自分自身が殺される危険にあることを想定していたかもしれません。またイザヤ書にある「苦難の僕」にご自身をなぞらえて、自らのいのちを犠牲にして、すべての人の罪を贖うことをご自分の使命として考えておられました。いずれにしても悲劇的な死が主イエスを待ち受けていたのです。31節の「必ず多くの苦しみを受け」の「必ず」というのは「必ず苦難を受けることになっている」もしくは「「苦難を受けねばならない」とも読める言葉(dei)でもあり、神がこのことを定めたことを示す言葉でもあるのです。
主イエスは「そのことをはっきりとお話しになった」(32節)と、あります。しかし残念ながらペトロや、そのほかのイエスに従い、イエスに期待を寄せていた民衆たちには、そのことが「はっきり」とは理解されませんでした。それどころか弟子のひとりペトロは主イエスを「わきへお連れして、いさめ始めた」とあります。どうしてペトロはこのような行動に出たのでしょうか。
それは今日の箇所でとても大切な言葉である「メシア」にかかわってくる事柄です。「メシア」というのは「救い主」「油注がれた者」という意味です。かつて旧約の時代にメシア(マーシーアハ)と言えば、特別の職務に召された者として、祭司、王、預言者というような人たちが任職する時に頭に油を注がれたのです。そして油を注がれた者は民衆の指導者でもありました。また、「キリスト」という言葉もメシアと同じ意味を持っています。ですからイエス・キリストと言う時「イエスは救い主である」という最も短い言葉であらわされた信仰告白となるのです。
さて、ペトロはなぜ主イエスの言動をいさめはじめたのでしょうか。それは彼をはじめ多くの民衆はメシアと言えば力強い指導者として、今はローマの大国の支配を受けているけれども、いつかユダヤの王国を復興し、この社会に革命をもたらし、自分達を解放してくれるはずだと、強い期待を持っていたのです。ですから主イエスがこれからその身に降りかかる受難を予告された時に、とても信じがたい、私たちのメシアが(当時もっとも惨い死刑の方法であった)十字架などで殺されるわけがないと信じたくないという気持ちがペトロをはじめ、民衆の気持ちを代弁したと言えるでしょう。
当時の民衆がどれほど主イエスに期待をし、一人ひとりがこれからの人生に希望をおいたかわからないのです。ある人は心を躍らせたでしょう。またある者は主イエスが指導者となった社会のことを想像して胸を熱くしたでしょう。今まで民衆は苦難の連続でしたから、メシアが来てくださったのだから、苦しみに耐える日々ではなくなるのだと大きな喜びに包まれていたのです。それはすべて救い主メシアがもたらしてくださることなのです。
ですから主イエスが、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになられたときに、ペトロは胸を張って言うのです。
ペトロは以前、漁師をしていました。漁師の仕事は貧しく、また当時の人が忌み嫌っていた職業でもありました。苦しくて、苦しくて仕方がなかった。しかしそこに主イエスが来られて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです(マルコ1:17)。ペトロはとるものもとりあえず、仕事やその他一切のものを捨てて主イエスの弟子になりました。主イエスが「わたしについて来なさい」とペトロに言われた時、その瞬間、ペトロの人生は変わり、光が差し込み新しく生きる道が与えられたのです。あれほど人生の意味を探し求めて苦しんでいたペトロはいよいよ喜びの道を歩くことができたのです。それだけに、ペトロが何もかも捨てて、人生をかけて従ってきたのですからなおさら主イエスが人々から嘲られ、苦しみに耐えながら無残な死を遂げることなどまったく信じることができなかったのです。
しかし、かつて漁師をしていた時のペトロはメシアに出会い、「あなたはメシアです」と堂々と言うことができるなどとは予測していなかったでしょう。
今日の聖書の箇所はペトロの信仰告白だけを伝えているのではありません。このあと福音書を読む人すべて、もちろん今ここにいらっしゃる皆さんにも、主イエスは問うておられます。
「あなたは、わたしを何者だと言うのか」。
主イエスは皆さんに出会いたいと思っておられるのです。もう既に出会っている人々も含めて、自分にとって主イエスは何者なのか? ということを真剣に考えていただきたいと願います。そしてペトロのように新しい人生のドアを開けることができればどんなに幸いでしょうか。
片柳弘史さんというカトリックのイエズス会に属する神父さんが居られます。その著作はたいへんよく読まれております。片柳神父は大学で法律を学んでいましたが、3年生の時にお父さまが亡くなられて深い悲しみに打ちひしがれます。人生について、いのちについて手当たり次第に本を読むようになり、その一冊がたまたまカトリックの神父の書いた本であったことから洗礼の恵みに与りました。
しかし洗礼を受けても一向に喜びや幸せが感じられないままでいて、その時に自分の信仰は頭だけの知識に留まっている信仰なのではないかと思い始めます。お祈りをしても神を身近に感じられず、神の愛を実践して人を助けるということもなかったのだそうです。そこでキリスト教の信仰を実践している人は誰だろうと考え、まだ当時インドのコルカタで、在りし日のマザー・テレサを訪ねます。
けれども、マザーに会えたことは大きな喜びになったのですが、それだけでは何にも変わることがなかった。「死を待つ人の家」の施設でボランティアをするけれども「どうしたらマザーの言うように、貧しい人びとの中に居られるキリストに出会うのか」ということが判らなかった。片柳さん自身も真の意味でキリストに出会っていなかったから、答えが見つからないのは当然だったのかもしれません。しかし、マザーのそばにいれば何とかなるかもしれないと一度は1週間で日本に帰り、また出直して1年ほどコルカタに滞在しました。
そんなある日のこと、修道院の廊下で知り合いのシスターと雑談をしていた時、マザーが向こうから歩いてきました。そして片柳さんのいるところで立ち止まって、彼の目をじっと覗きこんだ後でこう言ったのです。「あなたは神父にならなければいけません。今ここで決心しなさい」。マザーが何を思ってこんなことを彼に言ったのかは判りません。しかしその時の一言が彼の心に染み渡っていきました。最初は神父になることなど考えたこともなかったそうですからマザーの言葉は彼にとって決して幸せな「ひとこと」ではなく、彼の心の中ではすいぶん苦しみや混乱があったそうです。それはこの世の楽しみにも執着していたことや家族を持ちたいと言う希望もあってのことでした。
しかし次第にマザーのように神にすべてをささげる生涯にも惹かれはじめ遂に神父となったのです。片柳さんはその時を回想して、「何か自分の意志を超えた大きな力がぐいぐい自分を引っ張っていった」と言っていますが、まさにそれが主イエスとの出会いとなり、今は苦しみを超えた喜びの日々を送っているそうです。
ここにも「メシア」に出会った一人がいます。今日皆さんがマルコによる福音書の8章のみ言葉に触れたのは偶然の出来事ではありません。神の深いそして大きなご計画の中に皆さんの喜びの人生が約束されているからです。ぜひ主イエスに向かって「あなたは、メシアです」と答えてほしいと願います。そして皆さん一人ひとりを用いて、主イエスを中心とした平和な世界が築き上げられることを神は願っておられます。そのみ業に参与する一人でありたいと願います。
主イエスは今日私たちに語ってくださいます。34節「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。皆さん一人ひとりに「十字架」はあるでしょう。その十字架を一心に背負って主イエスに従うことは大切なことです。しかし、主イエスの生涯を見つめる時に、ご自身の十字架は背負いませんでした。全て「他人の十字架」を背負ってくださったのです。私たちが主イエスに従う時に、これに倣うべきではないでしょうか。人々に愛を実践するところに私たちの希望や喜びが生まれてくるのです。
皆さんにとってイエスは何者でしょうか?