2021.08.15

音声を聞く

「わたしたちの糧」

中村吉基

出エジプト記16:1〜16マタイによる福音書6:11

 今朝私たちは「主の祈り」の一節から聴きました。主の祈りは、6つの祈りから成り立っています。はじめに「神」に関する祈りが3つ、そのあとに「わたしたち」に関する祈りが3つ続きます。この6つの祈りで構成されています。前半の3つが御名・御国・御心が主語になっていまして、神がまことの神として崇められますようにという祈りとなっています。後半の3つは「わたしたち」が主語であり、わたしたち人間がまことに人間らしく生きられますように、という祈りになっています。今日は後半の祈りの1つ目、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」からご一緒に学びましょう。

 私たちが生きていくためには食物は不可欠です。ですからはじめに「必要な糧を今日与えてください」と祈り求めること当たり前のことかもしれません。しかし、私たちがいつも主の祈りを捧げるときには、この部分をどれだけ切実な思いを込めて祈っているでしょうか。この日本という豊かな国で生活をし、何不自由なく生きている私たちが「必要な糧を今日与えてください」と祈るのです。

 けれども、主イエスが生きておられた時代は違いました。

 主イエスの時代には多くの人々が貧しさの中にあえぎ、苦しみ、栄養失調のために死んでしまう子どもの数もひじょうに多かったと言われています。ある説によれば、産まれてきた子どものおよそ半数は10歳になるまでに死んだといいます。そのような中でお腹をすかせた子どものために親は何とかして食べものを手に入れ、「良い物を与える」ために力を尽くしたのです。そのような時代の人々に主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。私たちの親である神は食べるもの、必要なものを与え、私たちを成長させてくださるのだ、だから天の神を見なさいと指さした主イエスでした。

 私たちも必要な食物に困る日が来ないとは言い切れません。それは戦争が起きたときのことだけではありません。今も世界中で災害などによって多くの人が被災され、「必要な糧」に困っています。

 1995年の阪神淡路大震災のときにもライフラインが絶たれて多くの人がいのちを落としました。これからお話することは、その大震災の当時にある方が経験されたことを教えていただいた体験談をここに引用させていただきます。

 ある日、いつもの駅近くの古い小さなパン屋さんで、食パンを固まりで一本買って帰宅しました。そしてその次の日の早朝に、阪神淡路大震災が起こりました。
 震災が起こったのは、まだ暗い夜明け前の時間でした。だんだん明るくなってくるにつれて、その方の住んでいた辺りでは、たくさんの家が倒壊していることが判ってきました。崩れた家の下敷きになって出て来られない人や、亡くなった人たちがたくさんありました。外に出てきた人たちは、力を合わせて壊れた家にとじ込められた人たちを助け出そうとしました。
 大きな余震も次々に起こっていました。とりあえず、助けられる人を助け出すと、人びとは安全な場所を求めて動き始めました。近所に住んでいて、いつも日曜日に教会で礼拝をしている人たちが、教会に集まりだしました。教会の建物も地震で倒壊していましたが、周りに集える広い場所がありました。知っている顔が揃いだすと、少しほっとできたそうです。そしてみんなが、朝から何も食べていないことに気がついたそうです。
 その方の家は崩壊していましたが、買ったばかりのパンがあることを思い出して、家にもぐり込んで探すと、パンが見つかり、持ち出すことができました。みんなのところに持っていって「パンがあります」と言うと、緊張と不安で固くなっていたみんなの顔が、ふっと嬉しい表情になりました。わたしたちは大きなパンの固まりをちぎって分け合い、大人も子どももみんなで一緒に食べました。  パンは大きかったけれども、大勢でわけると一人の分はわずかでした。それでも、食べるものがあったということ、一つのパンを分け合って、そこにいたみんなで一緒に食べられたということは、体にも心にも生きる力を生み出しました。さあ、これからどうしていこう、と考える勇気を与えてくれたそうです。
 その後だいぶ経ってから、その時に食べたパンを焼いたお店が、震災で全壊してしまったことを知りました。あの時、みんなで分け合って食べたパンは、そのお店で作られた最後のパンだったのです。その最後のパンが、震災にあってから最初の食事になり、人びとの生きる力になりました。一つのパンを分け合うことは、人びとが一緒に生かされていることをわからせてくれたのです。

 私はこのお話を最初に聞いたときに、神はパンになって現れたのだと思いました。おとぎ話ではありません。先週の礼拝で私たちはヨハネによる福音書の6章から聴きましたが、主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。「必要な糧」というのは何も肉体的な飢え、渇きを満たすものだけを指すのではありません。人間の精神的な、心の飢え、渇きも指すのです。この時、大勢の人びとが一斤のパンを分け合って、一人ひとりの手に渡されたパンの分量は少なかったかもしれませんが、それを口に入れ、同じ味を味わった人びとには共通して、何かあたたかなものを感じ取ったでしょう。その方以外にはキリスト者なんていなかったかもしれません。仏教徒だって、宗教を信じていない人だって、そのあたたかみを感じられたでしょう。神なんて感じなかったかもしれない。しかし決して恩着せがましいことを言うわけではありませんが、そこに「匿名の神の愛」が働いた、と私には見えるのです。

 今日の箇所、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」よく心に刻みましょう。主イエスは私たちに祈るときには、「わたしだけの糧」を祈るのではなく、「わたしたちの糧」について祈りなさい、教えられたのです。福音書の中にも主イエスが食事をする場面はたくさん出てきますが、主イエスはいつも誰かと一緒にパンを分かち合っておられます。自分ひとりでパンを独占したりすることはありませんでした。ブラジルの神学者でカトリック司祭のレオナルド・ボフという人は「神はわたしのパンのみを求める祈りには耳をお貸しにはならない。(中略)わたしたちのパンだけが、神のパンなのである」。という言葉を残しています。

 そして命のパンである主イエスを一緒に歩みを起こそうとする、あるいはもう起こしている私たちも悲しみ、苦しんでいる誰かの「必要なパン」になることができるのです。また、私たちの教会も飢えている人を満たし、渇いている人を潤す、命のパン、命の水を喜んで差し出す教会にならねばなりません。

 「隣人のために存在する時、教会ははじめて教会となる」とは第二次大戦でナチス・ドイツに処刑された神学者ディートリヒ・ボンへッファーの言葉です。今日の聖書の言葉とともに心に刻みたいと思うのです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください)と祈ることは「平和」を祈ることにもつながるのです。


 
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