2021.07.25

音声を聞く

「パンはどこに売っている?」

中村吉基

列王記下4:42〜44ヨハネによる福音書6:1〜21

 主イエスはガリラヤ湖を渡って、主を求めて「後を追って」きた多くの貧しい人々、疲れ果てて生きる希望を失っている人々、その多くはイエスが病気の人々を癒やされたのを目の当たりにして、あるいは噂を聞きつけたのかもしれません。この時「大勢の群衆」となっていたのでした。

 主イエスは弟子のひとりフィリポにこう言いました。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」5節

 それはフィリポを「試みるため」(6節)だったと福音書には書き添えられています。

 主にそのように問われてフィリポは

「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」7節

 と答えました。賢明な意見でした。

 しかしそこで事態は変わりました。9節以下をご覧ください。

弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 アンデレの答えもまた賢明な意見でした。

  主イエスは「人々を座らせなさい」と仰せになったのちに、

「パンを取り、感謝の祈りを唱えて……人々に分け与えられた」11節

 と記されています。

 この主イエスが備えてくださった思いもかけぬ野外での食事に与った人々は感動し、喜びに満たされ、新たな力を得てそれぞれ帰路についたのではないでしょうか。しかし、それだけで終わってしまったら今日の福音は「美談」のように終わってしまいます。現代人の私たちの中にはこの奇跡物語を聞いて、本当にこのようなことが文字通り起こったのだろうかと戸惑うかもしれません。しかしこの物語が史実であったかどうかということは大きな問題ではありません。それよりもこのヨハネによる福音書の記者がこの物語を通して本当は私たちに何を伝えたかったのかを知ることのほうが大切なことです。

 この主イエスのもとへと集まってきていた群衆の一人ひとりは、とても重たい現実に晒されながら生きていたといえます。疲れ、重荷、病、孤独……時を越えて21世紀に生きる私たちと変わらない悩みがあったかもしれません。そしてフィリポやアンデレなどの弟子たちもこの群衆の状況を良く判っていたでしょう。しかし、弟子たちはどうすることもできなかったのです。

 フィリポは「パンが足りない」、アンデレは「5つのパンと魚2匹ではなんの役にも立たないでしょう」と消極的な言葉ばかり出てくるのです。

 この現実にどう対応してよいのか判らない。ごく現実的なことしか口をついて出てこないのです。私たちがイエスの弟子たちのようにここに集まった人たちの給仕を任されたならばどうしたらいいでしょうか? 今手にしているのは5つのパンと2匹の魚です。これだけでは目の前にいる群衆を満たすことはできません。解決の糸口がつかめないのです。このぐったりと疲れ果てている群衆に希望を与えることはできないのです。私たちは他者に接するときに本当に無力です。人々を自力で救うことはできない。そこで浮き彫りになってくるのが主イエスの存在です。人々の重荷を背負い、救うことのできるお方は主イエスだけです。私たちはこの主イエスをしっかりと見つめ、結ばれてそこから人々に希望をもたらす力を頂かなくてはならないのです。

 さて、この説教を準備するにあたっていつものように「祈り会」でこの箇所をそれぞれが読んで分かち合いました。私自身は、11節の主が「欲しいだけ分け与えられた」という短い1行に心を燃やされました。この5000人の食事については4つの福音書全てに記されています。それぞれに叙述の仕方は少しずつ違うのですが、このヨハネによる福音書では他の福音書の記事に比べてイエスの言葉が少ない気がします。しかしその分、イエスの行動に注目することができるのです。

 もう15年以上前のことになりますが、サンフランシスコにあるグライド記念合同メソジスト教会という教会の礼拝に出席してみたいと夏休みを利用して出かけました。ちょうど7月の最後の日曜日でした。

 グライド教会は世界的に有名なゴスペルクワイアーがあります。また礼拝では国籍や人種や貧しい人も豊かな人も、セクシャリティーもさまざま。みんなが一つになって礼拝をします。あらゆる人が共にいます。礼拝の平和の挨拶や教会の祈りのときに手をつないだり、ハグしたりしますがここに行ってみて事実、私の右手をつないだのはアフリカ系のホームレスのおじさん、左手はどこからか旅行できた白人の家族のお母さん、斜め前には日本人もいました。他にもヒスパニックや中国の人、同性のカップルがいました。礼拝の30分前に私は席に着きました。そのころは礼拝堂の3分の1くらいの人だったのがどんどん人がやってきて礼拝が始まるころには600人くらいの人で埋め尽くされました。

 私はこれまでにいろいろな国のさまざまな礼拝に参列したことがありますが、始まる前からこんなにわくわくしながら礼拝を待つのは初めてでした。キーボードの演奏がスピーカーから鳴り響き、聖歌隊がゴスペルを歌いながらステージに上がってきて礼拝は始まりました。まるでコンサートのようです。客席は一気に盛り上がり、みな立ち上がって歌いだします。正面には、世界各地の紛争、美しい自然、人物の画像など、スライドが次々に映し出され、光と音楽に圧倒されてしまいました。

 この教会には世界中の人々が礼拝に来ます。私は泊まっていたホテルの並びがこの教会でした。しかしホテルのスタッフから教会の地域には足を踏み入れないでくださいと言われていました。なぜなら教会のあるテンダロイン地区(昔は肉の市場があったのでこういう名前なのだそうです)は安アパートとホームレスの街、炊き出しを待つ大勢のホームレスでごった返しています。危険だから旅行者は行かないように、というものでした。

 グライド教会もかつては白人の裕福な人たちが来ていた教会だったそうです。ところがダウンタウンが荒廃していくのと同時に教会員は郊外へ流出していきました。そこに今から50年近く前にアフリカ系のウイリアムス牧師が赴任してきました。彼は礼拝堂に架かっていた十字架を取り外しました。自分たちだけのことばかりを考え、「死と義務と安全と排他性を崇拝」しているようなこの教会に「死の臭い」を嗅ぎ取ったそうです。そして彼は人々にいのちを与え、自由を与え、力を与え、みんなが一つになるために今も生きて働かれる賛美する教会へと方向転換していきました。

 礼拝で牧師はこう会衆を招きました。

 「ここは君たちの家だ、この家に帰っておいで。私たちは神の家族なんだ。金持ちもホームレスも、アフリカ系も白人も、アジア系もヒスパニックも、男性も女性も、同性愛者も異性愛者も、虐待されている人もエイズ患者も、麻薬中毒もアルコール中毒も、みんな家族なんだ! 帰ってきたらいい、ここには無条件の愛がある」。

 グライド教会に来ている人たちは「ここは白人だけ、貧しい人はダメ、ゲイもダメ、エイズ患者はダメ」というようなダメダメ尽くしの一般教会の見せかけだけの愛に失望してしまった人も多いのでしょう。でもこの教会に出会って「ここは違う。私はこんな教会を探していたんだ」という人たちが「大勢の群衆」になって押し寄せてきています。礼拝では車椅子の人がクワイアーでゴスペルを歌っていました。手話の通訳もありました。ときどきムスリムやユダヤ教徒、仏教徒もこの教会の礼拝にやって来るのだそうです。ここではまさにいろんな人が一つとなって礼拝をしていました。

 後日見学しましたがこの教会には緊急駆け込み所、薬物依存克服、ホームレス支援、高齢者支援、保育所、医療教育、エイズ患者支援などの「シェルター・生活保護活動」や「職業訓練」も行っています。貧しい人々、ホームレスが対象です。薬物常習者でないか、現在身につけている技術、学習に対する意欲などをチェックした後、履歴書の書き方、パソコンの使い方、就職の際の模擬面接、服装についても教えています。初めは食べ物や緊急の援助を求めて教会にきた人たちは、さまざまなプログラムを紹介されることで、自然にクラスに入っていけるようになっています。教会の地下にある食堂では、毎日、朝昼晩、希望する人に無料で食事を提供する活動をしています。

 私たちは、無力な存在ですし、自分ひとりでは何もすることができないものです。でも主イエスが私たちに力をくださって、他のたくさんの人に希望を持たせてあげることができる。私たちは神の道具として教会もそこに連なる人々も立派にやり遂げることができる。しかしこれはグライド教会だけの業ではなく、全ての教会に課せられたことです。イエスは今朝皆さん一人一人に「どこでパンを買えばよいだろうか」とお訊ねになっています。どこかで買ってくるのではない、自ら与える者に、与える教会にならなくてはいけない。それが今日の箇所を通して主イエスが私たちに教えておられることなのです。


 
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