今朝は詩編から聴いています。
8節のところに「わたしは絶えず主に相対(あいたい)しています。/主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」とあります。
「相対する」。不思議な言葉です。辞書で調べるとまったく違う2つの意味があるからです。1つは「互いに向かい合う。また、直面する。『テーブルをはさんで相対して座る』」もう1つは「反対の立場に立つ。対立する。『相対する意見』」。相対するというのは、言葉の意味も相対してしまっている。顔と顔を突き合わせているかと思えば、背中を向き合わせているようなときにも使われるのです。
では皆さんは普段神の御顔に向き合っていますか。それとも背中合わせの状態でしょうか。
口語訳聖書ではこう訳されていました。
「わたしは常に主をわたしの前に置く。/主がわたしの右にいますゆえ、/わたしは動かされることはない」。聖書で「右」と言うのは「優位性、尊敬、権威」を表します。詩編の作者は「主をわたしの前に置く」と告白します。
もう一度お聞きします。皆さんは普段、神をどこに置いておられますか。神は置物ではないから、こっちに置いたり、あっちに置いたりできないし、神の側で私たちに寄り添ってくださるのではないか、とお考えの方もいらっしゃるでしょう。しかしこの詩16編の作者は確かに言いました。「わたしは常に主をわたしの前に置く」。
このことは私たちの信仰生活においていちばん大事なことです。
これからお話することは私が以前聞いたいくつかの例です。皆さんはどれに当てはまるのか、当てはまらないのかよく聴いていてください。
「苦しい時の神頼み」という言葉があります。これは神を「後ろに置いて」しまっている人を表しています。こういう人はいつも「自分」が先にあります。自分、自分、自分のことでいっぱいいっぱい・・・・・・ぎゅうぎゅう詰め。そういう人にとっての神は都合のいい便利な道具のようなものです。何か困った時や、願い事がある時、「神様、◯◯してください。してください」と自分の「ご利益」のために神を引っ張り出してくるタイプです。
神を「高い場所」に置いてしまう人もいます。こういう方は神と存在が身近に感じられません。あるいは神を聖書の中に閉じ込めてしまっているかもしれません。日曜日だけお目にかかる人がいます。または神にお会いするのは死後の世界だけだと信じきっているかもしれません。こういう人は毎日の生活の中で神が働いてくださることを微塵も信じていません。だから聖書の言葉が「神のみ言葉」に聴こえてこないのです。自分の思いの中にだけに神がいます。
反対に「低いところ」に神を置いてしまう人もいます。こういう人は穴を掘って神を埋めてしまうような人です。普段は周りの人にキリスト者であることも隠し通しています。
神を「横に置いて」しまう人もいます。新約聖書には主イエスが「真ん中に立って」平和を宣言されるという箇所がいくつかありますが、このタイプの人には残念ながら神は真ん中にはいないのです。
今ご紹介したことで、共通して言えることはいつまで経っても本物の信仰は与えられないということです。詩編の作者は「常に主をわたしの前に置く」と言うのです。私たちキリスト者は洗礼を受けたことによって神と結ばれました。その時から神と二人三脚の人生が始まりました。「主をわたしの前に置く」と言うのは、神こそわたしの従うべきお方、わたしをいつも導いてくださるお方だとすることなのです。
先ほど聴きました、もう一つの箇所、マルコによる福音書では、主イエスは皆さんに「向こう岸に渡ろう」とおっしゃいました。
主イエスは弟子たちと舟に乗られました。主イエスの活動の中心、ガリラヤ湖でのことでした。いつも主イエスはカファルナウムという湖岸の町を中心にして、住民を中心に神の救いを伝えていました。しかし、向こう岸の町には行ったことがなかったのです。どういう理由か分かりませんけれども突然イエスは「向こう岸に渡ろう」と言われた(35節)。けれどもその途上で主イエスが眠ってしまわれた。カファルナウムではたくさんの人に福音を伝えておられた主イエスでしたから、かなりの疲労が溜まっていたのかもしれません。
「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」(37節)。
普段は穏やかなガリラヤ湖が一変、舟は激しく揺れて、沈みそうになったのです。弟子たちは慌でるばかりです「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)という言葉が現実を表しています。そこで主イエスを起こすのです。主イエスはどうしたのかというと「起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)。
弟子たちの中には少なくとも4人の漁師がいたはずです。毎日、漁に出ていた湖の変化をよく知っている人たちでした。このような突風に遭ったことがないわけがありません。こんな時どうしたらよいか、わかっていたはずです。しかし、その当人たちが主イエスを起こすまでにパニック状態になるなんてやはり考えられないのです。もしかしたらこの激しい風というのは竜巻級のものだったかもしれませんし、そうであれば弟子たちは「死」を予感したことかもしれません。
けれども目を覚まされた主イエスの返答は、2つの疑問形で記されています。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節)というのです。ですから今日の箇所は、嵐の出来事をドキュメンタリー番組で紹介するような話とは違うのです。それは皆さんの「信仰」にまつわる話です。皆さんの長い人生の道での嵐、大波が襲ってくるようにたびたび私たちが遭う苦しみや悲しみや病に関係するお話なのです。
私たちの人生は良い時ばかりではありません。嫌なことも起こりますし、突然嵐が起こり、皆さんの乗っている舟が揺れに揺れて、湖の底に沈みそうになるときもあります。このような中で自らのいのちを絶つ人もおります。残念です。神も悲しんでおられることでしょう。神は一羽の雀にさえも、髪の毛の一本にさえも、み心をなされるお方です(マタイ10:29)。
でも無理もないことかもしれません。自分一人の力や努力だけではどうにもならないこともあることを私たちは知っています。信仰があれば大丈夫でしょうか? 洗礼を受けてキリスト者になったら平気ですか? それでもこの弟子たちのように焦って、慌てふためくことは私たちにもあります。
私たちは慌てふためくと、つまり平常心を失うとすぐにこう言います。「神なんてどこにいるのだろう」「イエスなんていないじゃない?」。そういう疑いの信仰を持つ人の中で、主イエスは眠ってしまっているのです。自分の頭で考えないで、ずっと受け身で、同じ所に座ったままでいるのが私たちの信仰ではない。そういう人の中で主イエスは眠ってしまわれているのです。
でもたとえ主イエスが眠ってしまわれたとしても、慌てふためかないのが本物の信仰者です。皆さんの普段の生活の中で神がどこに置くのか、ということが私たちの信仰を育みもしますし、蝕みもするのです。信仰者にも嵐のようなこと、竜巻級のことは起こってきます。しかしそこで信仰を守っていくということを繰り返していくことによって私たちの信仰というものは成長していくのです。そして、知らず知らずのうちにたとえ嵐のような出来事に遭遇しても、倒れない、湖の底に沈まない私たちに変えられていくのです。
そして今、皆さんは主イエスを舟に残されたまま自分だけそこから下りてきて歩んでいないでしょうか。主イエスを救い主と信じ、神の右に座しておられる主イエスとともに歩む人生は、詩編の作者が言う「わたしは揺らぐことがありません」と堂々と宣言できる人に変えられていくのです。そして詩編の最後のところに「命の道を教えて下さいます」(11節)とありますが、自分の力で一生懸命に人生の道を歩きに歩いて、それでもどこに行くのか、わからない人ほど不幸な人はおりません。神を自分の「前に置く」人は「命の道」を示されています。神が自ら導いてくださる「命の道」を私たちは歩んで行けるのです。