2021.06.06

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「それでも神はあなたを愛される」

中村吉基

創世記3:1〜24コリントの信徒への手紙二 4:13〜5:1

 神がアダムのパートナーとしてお造りになった女が、エデンの園の中を歩いていると、蛇が近寄ってきたことから今日の箇所は始まります。私たちは、この蛇に対して何か悪いイメージを持ってしまうのですが、蛇もまた神に造られた存在でした。冒頭にも記されてあるように「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とある通りです。蛇と女とのやり取りはこのようでした。1節の後半以降にそのやりとりがなされていきます。

 目の前にある木の実は「いかにもおいしそう」(6節)で、それを食べると人間には神のように知恵と力とを持つようになるのだろう、それを神ご自身がおそれているに違いない。神とは何と偏狭なお方だろうか。このように思って女はついにその実を一口食べてしまうのです。神は人間に以下のところでこのように命じておりました。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」2:16

 しかし、女が一口食べても決して死ぬことはありませんでした。けれどもこのとき人間がいつかは必ず死すべき存在になったことに、女は気がついていませんでした。きっと女は死なずに済んだのでホッとしたことでしょう。傍らにいたアダムにも勧めるのです。そしてアダムも木の実を食べるのです。女は2度ホッとしたに違いありません。私たちにもこういう経験がないでしょうか。何か後ろめたいことをしてしまったときに、一緒にそれを犯した人がいたならば、悪いことをしたのは自分だけではない、と言い逃れをする理由を見つけたように思うのではないでしょうか。

 しばらくすると蛇が言ったように木の実の効果が出てきました。自分たちが裸でいることを恥ずかしく思うようになったのです。今までにはないことでした。しかもお互いの身体の違いも目に付くようになってきました。あわてていちじくの葉を綴り合せたものを身にまとうのです。2人は神のように知恵が与えられたのだと思ったことでしょう。しかし、所詮そのような小さなことだけしか起こりませんでした。世界といのちの造り主である神に比べれば、人間は貧弱で、裸で暮らし、また互いの違いが目に付くだけであったのです。

 さて、8節以下を読んでみましょう。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

 「風の吹くころ」とは夕方を表している言葉だと思われます。アダムと女は樹の繁みに姿を隠します。神の「歩く音が聞こえてきた」とあります。どんな思いで、2人はこの足音を聞いたのでしょうか。神はアダムを呼ばれます。

「どこにいるのか」。

 これはただ単にアダムたちが潜んでいる場所を尋ねているだけではないような気がします。神はこの世界をそして人間をお造りになったときに、自分に属するものとしてお造りになったはずです。神とすべてのものとが結ばれていて初めて調和がとれていたはずなのです。神がアダムに「どこにいるのか」とお尋ねになったのは、神と人間との関係は今、どうなっているのか、とその関係性を問うていたに違いありません。

 アダムは答えます。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」3:10

 そこで神は問います。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(3:11

 そのあとのアダムの答えに私たちは注目すべきでしょう。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」3:12

 アダムは自分の過失を認めるどころか、木の実を食べたのは、女のせいだと言いました。しかもよく注目すると「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と言っています。これは女のせいだけではなく、神のせいにもしているのです。

 そこで、責任を転嫁された女のほうに神はお尋ねになると女は、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)と言って、やはり自分の過失を認めようとはせずに蛇に責任転嫁してしまうのです。この2人に共通することは、あくまでも被害者として訴えようとする態度です。何とか神に言い逃れをしてこの場をしのぎたいとする心情がありありと表れてきています。

 嘘をつくことに何の罪悪感も感じられなくなっている人がいます。一種の麻痺状態と言えるでしょう。しかし、人間は一度嘘をつくとその嘘がどんどん大きくなっていきます。その場しのぎの嘘、嘘で嘘を固めても、必ず暴かれる日がやってきます。あるいは他人に責任をなすりつけ合っても、そこには何も生まれてきません。嘘は神との信頼関係を破壊し、人間同士の交わりも破壊し、互いに憎み合い、利用する醜い関係に変えてしまいます。

 人間はいざたいへんなことが起これば、他人にそれをなすりつけてでも自己保身しようとする習性があるということです。「自分さえよければ、他の人はどうでもいい」という考え方は人類最初の罪として、この創世記3章に記されています。自分だけ「いい子」になろうとするのです。そこには「連帯責任」などということはありません。責任を帯びることを避けている人間の醜い姿がよく表されています。このことは、人間にとってもっとも悲しむべきことなのです。

 私たちは、無理に「良い人」になろうとすることはないのです。あの人から嫌われたくない、自分はいつも「良い人」としてあの人の目に映っていてほしい。もし皆さんのうちにそういう気持ちがあったならば、どうぞ今日を限りにその気持ちは捨ててください。なぜかと申しますと、自分自身の率直な気持ち、自然な思いというものを、「良い人」という仮面の下に押し隠すことをすると人は苦しくなるのです。「良い人」なろうとすればするほど、自分を窒息させてしまうからなのです。

 神は決して、人間を従属させようとしているのではありません。今日の箇所では、あたかも人間が神に操られるロボットのように、自分の頭や心で考え、自由に行動することを制限されているわけではありません。人間にとって大切なのは神との関係です。私たちは今この21世紀にも何度も何度も間違え、足を踏み外すのですが、自己中心ではない、神中心の世界なのです。私たちはそのことをよく知っているはずです。神中心、神の愛や素晴らしさをもっともっと他の人々に伝えていかなければなりません。神を中心に考えるということは、あるとき主イエスも言われましたように、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」マタイ22:37〜39)、他の人も大切にする生き方につながっていきます。もし、アダムが神中心に生きていたならば、自分の過失を女のせいにすることはなかったでしょう。

 私たちに助け合う仲間、対等なパートナーとして神はもう一人の人間を造られたのです。それが罪をなすりつけ合うような関係、いがみ合う関係になってしまったのは、人間の罪です。後にアダムは女にエバ(命)と名付けます。そしてエバは最初の母として生きていったのです。しかし、アダムとエバはエデンの園を追放され、人間は労働をしながら生きていく者となったのでした。

 しかし、神は人間をこれでお見捨てになったわけではありません。決して捨ておかれなかったのです。15節で神が蛇に話している言葉にそのことが秘められています。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

 何やら意味が判らないままここを読んだのではないでしょうか。「彼はお前の頭を砕き」の彼とは、いにしえの人たちによればイエス・キリストのことだと信じられてきました。救い主イエスこそが罪の頭を砕かれるのです。このように楽園を追われた人間との和解を長い歳月をかけて神は実現されるのでした。 そして神は今この時も私たちを愛してくださっているのです。神は今朝私たちにも言われます。

「どこにいるのか。」


 
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