2021.05.30

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「見えない、見える、感じる神」

中村吉基

イザヤ書 46:3後半〜4ヨハネによる福音書 3:1〜17

 今日私たちは三位一体主日の礼拝を捧げています。今日この日に神とイエス、そして聖霊が私たちにつながっていてくださるということを私たちの心に刻みたいと願っています。今日の説教題を御覧になって一体何の話が始まるのだろうと思われたかもしれません。上智大学で長らくお教えになった岩島忠彦神父は、三位一体を「見えざる(見えない)神、見える神、感じる神」と表現されました。先週私たちはペンテコステを祝いましたが、聖霊降臨の出来事によって教会は誕生しました。

 しかし最初の教会は前途多難な宣教を強いられていたと言ってよいと思います。なにせ、一神教のユダヤ教徒、多神教の異邦人たちに「イエスはキリスト(救い主)であった」と伝えるわけです。ユダヤ教徒たちから論争をふっかけられれば、「クリスチャンたちの信じている神は、神、キリスト、聖霊の3つのペルソナを持った多様な神」だと伝えなければなりませんし、一方多神教の異邦人たちには、「3つのペルソナを持っているけれども唯一の神」だと証ししなければならなかったのです。そのようなところから三位一体論が出てきたのではないかという考察もあります。

 神はいつも私たちと一緒に居てくださり、神のものは私たちのもの。私たちは神のもの。神が私たちの親であり、いつも私たちを見守っていてくださるお方です。私たちは神につながっていることを実感するためにこうして日曜日ごとに礼拝し、賛美し、感謝をあらわし、祈るのです。

 私たちは去年の11月の待降節の始まりから半年間、イエスの降誕、生涯、受難、復活、昇天そして先週の聖霊降臨と大きな神の救いのわざを憶えて過ごしてきました。そして来週からの半年間は「教会の半年」と言いまして、聖霊降臨から始まった教会が現在に至るまで神の大きな救いが宣べ伝えていることを憶えて過ごしていきます。

 今日私たちに届けられた聖書の言葉、新約聖書の中ではもっともよく知られた言葉の一つです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」16節)。

 神はかけがえのない独り子のいのちを差し出して、人間に永遠のいのちを与えてくださいました。私たちがイエス・キリストを心に信じるだけで、既に永遠のいのちを得ているのです。主イエスはこの素晴らしいメッセージをファリサイ派に属するニコデモにお話しになられました。ニコデモは「ユダヤ人の議員」であったと1節に、また10節に「イスラエルの教師」と表現されていますので、たいへんファリサイ派の人々から人望のあった人なのでしょう。

 しかし、「優秀」であったニコデモも主イエスの言われていることをきちんと理解することができませんでした。それはニコデモの頭には「崇高な神は、私たちよりはるか高いところにおられて、私たちのために独り子を差し出されたりはしないはずだ」という先入観がこびりついていたからでした。私たちにも経験があると思いますが、こういう思い込みや先入観があると新しく知ったことや聞いたことがなかなか自分の中に入ってきません。それに加えてニコデモは「律法さえきちんと守ってさえすれば、神は私を救われる」と信じ込んでいました。彼は福音を受け容れようとはしなかったのです。

 さて皆さんは、この世になぜ生まれてきたかと考えたことはあるでしょうか。私たち人間は偶然に生まれ、偶然に知り合い、偶然に生きているのでしょうか。皆さんがこの世に生を受けたのは、何の間違いでも、不幸な出来事でも、そして偶然でもありません。皆さんが生まれた時、きっと周囲の人たちは大きな喜びに包まれたでしょう。それだけではありません。初めて立って歩いた時、初めて言葉を話した時、幼稚園に入園した時、小学校に入学した時、皆さんはいつも周りの人びとに大きな拍手をもって迎えられてきたはずです。

 けれどももしも皆さんの両親が「この子は生まれるはずではなかった」とか「予定外だった」と思われていたとしても、神にとってはそうではなかったのです。神は天地創造の終わりに人を造り、それを含めて完成された世界を御覧になって「極めて良かった」(創世記1:31)と言われたのです! そして神は私たちの誕生を心待ちにしておられたのです。皆さんが母親のお腹の中に宿るはるか昔から、神はご自分の造られた世界に、皆さん一人ひとりが生きることを描いておられたのです。いわば神は私たちの「ライフ・プランナー」なのです。神は私たちの人生(ライフ)を計画しているだけではありません。私たちのいのち(ライフ)を計画し、今もそれを推進しているのです。皆さんがどこに生まれ、いかに生きるか、すべてを御心のままにオーダーメイドされました。こんなこと言っていますと私たちはまるでロボットのようですが、そうではなくていのちの息を吹き入れられて生きるものとされました(創世記2:7)。

 ですから私たちは偶然ではなく、神の綿密なご計画うちに私たち一人一人を造られたのです。もし私たちの親がその務めを果たさないで、私たちを育てることを放任してしまったとしても、神はその人たちを親に選んで、私たちを造られたのです。しかも神の目には私たちはかけがえのない存在として生まれてきたのです。そして神は宇宙万物のすべてのものを造られ、創造されたすべての動植物のいのちを育み、私たち人間が生きるためにすべてを備えてくださったのです。これは偶然の結果ではありません。なぜなら神は人間を愛してくださっているからです。人間は神に造られたものの中でその愛を受ける特別な存在として造られたのでした。

 旧約聖書イザヤ書46章3節後半からこのように記されています。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。

 神はその愛を私たちに与え、私たちも神と人々を愛することのできる存在として、神のご意志によって、神がかけがえのない一人を造りたいという一心で、私たちはこの世に生まれてきたのです。ですから皆さんがこの世に存在していることは意味のある、理由のあることなのです。そして私たち一人ひとりの人生には深い意味が秘められているのです。最初の人間アダムとエバが神と断絶してしまってから神は長い年月をかけて、神の独り子イエス・キリストを見える神、触れる神としてお送りくださいました。そして主イエスが昇天されたあと、いつも、そしていつまでも私たちに神の愛を感じることができるようにと聖霊を送ってくださったのです。


 
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