先週は「わたしにつながっていなさい」と主イエスと私たちとの関係をぶどうの木に譬えた箇所からのお話をしました。今日はその続きのところです。この箇所は主イエスが最後の晩餐の時に、弟子たちに自分の思いを、心を込めて真剣に話した「告別説教」などと呼ばれているメッセージです。主イエスはここで弟子たちをもはや僕(しもべ)とは呼ばず、「友」と呼ぶと言われました。これは弟子たちだけのことではありません。主イエスは今日私たちを「友」と呼んでくださり、私たちを愛しておられます。
では私たちにはどんな友が与えられているでしょうか? ちょっと考えてみましょう。自分を愛してくれる友達がいますか? 自分に寄り添ってくれる友達がいるでしょうか? 反対に自分が愛している友達がいるでしょうか? 寄り添うことのできる友達が与えられているでしょうか? 「親友」が与えられている人は幸いです。心から信じられる人の存在は私たちを強くします。先週もお話ししました「信頼」「信用」できる人がいることは幸せです。お互いのことをよく理解し合い、また尊敬し合い、何でも話せる友達がいるのといないのとでは私たちの人生は大きく違ってきます。
「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。このみ言葉を聞くと主イエスが生前ガリラヤにおいて、きっと泥だらけになりながら旅をして貧しい農民に、あるいは病気の人に、差別されていた人に「神の国とはこんなところだ」と目を見開いて真剣に語っていた表情を思い浮かべます。それは今、この現代においても続けられています。実際に私たちはこの目でイエスの姿を見、耳でイエスの声を聴くことはないかもしれません。しかし、主イエスの親友とされた私たちが、自分の身体と心の中に生き続けている主イエスを宣べ伝えていくのです。私たちは助けを必要としている人に主イエスの救いのみ言葉を伝えることができます。気弱になっている人に主イエスの慰めの言葉を届けることができます。そして友にも恵まれない孤独な人に主イエスの暖かいみ言葉を、皆さんの中に生きている今も復活の主が語ってくださいます。
16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。私たちが主イエスを選んだのではない、主イエスが私たちを選んでくださった。このみ言葉が話されたあの最後の晩餐の部屋に戻ってみたいと思います。なぜ、最後に主イエスはこのみ言葉を語られたのでしょうか? 弟子たちの中には、「いやいや、私の方がイエスを選んで従ってきたんだ」そう思っている人がいたのではないでしょうか。最後の晩餐の席上で弟子の一人ペトロはこう言います。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)。ペトロの言葉の背後には自分からイエスを選び、従っているのだ、という思いが表れています。私たちも、あるいは教会に来る人たちにも同じ思いがあるかもしれません。自分で教会に通うことを決めて、そして自分が従っている、という思いです。
しかし、このことを逆の見方で見てみるとそれを辞めたいと思うときにはいつでも、簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいます。本物の信仰は、私たちのいのちの造り主である神に委ねる信仰です。神に対して絶対的な信頼を寄せるのですから、いつでも簡単に棄て去るのとは相反するものです。自己中心ということをよく言いますけれども、文字通り自分を真ん中に据えた思いです。そうではなくて「わたしがあなたがたを選んだ」と言うのは私が中心とか、私が選んで信じているという思いを180度変えて神を中心にして、そして信じている私も、神の選びによるのだという考え方に転換しなさいというみ言葉です。本物の信仰は私が神を、主イエスを信じることも、教会に来ていることもすべて神の選びによるのだと信じられるかどうかにかかってきます。自分が選んだのではなく、主イエスのほうで自分を選んでくれたという考え方に転換しなさい、ということを主イエスは弟子たちにも私たちにも求めているのです。
自分で選んだ、という思いは宗教を信仰する人にありがちなことかもしれません。日本ではすぐに信仰を棄ててしまう人が多いのです。ご利益主義で宗教を選ぶ、病気が治らない、願いがかなえられない、そんなことでその信仰を棄てる人が多いのだそうです。たえず教会や宗教を変わり続けるタイプの人がいます。たとえその人たちが「わたしが主イエスを選んだ」と自信たっぷりに言ったとします。しかし、その「わたし」自身がいつその信仰を棄てるかも判らない危うさを誰もが持っています。でも安心してください。主イエスは宣言しておられます。「わたしがあなたがたを選んだ」。私たちが自信に満ちているときも、弱り果てている時もいつでも主イエスが「わたしがあなたを選んだのだから大丈夫」って言ってくださるのです。
「わたしがあなたがたを選んだ」。と聞いて違和感を覚える人もいるかもしれません。でも考えてみてください。皆さんが教会に来られたのは、たまたま偶然ではないのです。ある人はキリスト者の家庭に生まれた。ある人は友達が教会に行っていて誘われた。ある人は入学した学校がキリスト教の学校だったとか、さまざまな「きっかけ」があります。そうして教会に導かれた。聖書との出会いがあったのですが、でも私たちの周りを見てみれば、キリスト教とは何の関係もなく生きている人もたくさんいます。この私が教会に導かれている、他の人がまだ知らないイエス・キリストに出会っている。これはたまたま起こったことではなく、神がわざわざ「あなた」という一人を選ばれたのです。このことを素直に喜んでいいのです。選ばれたことに誇りを持っていいのです。この選びは英語で言うとCallingです。神は私たちを「呼び出された」のです。このCallingには大切なことが含まれています。それは言葉の意味は「使命」とか「職業・仕事」という意味がありますが、神に選ばれた者として私は何をしていくのか、何を神と隣人とに捧げていくのかということです。
16節の続きに目を向けて見ましょう。
ここで2つのことが言われています。1つは私たちが人生の旅に出かけて行った時、私たちの生活の場で私たちがすること(主イエスの愛を伝える)が実を結ぶ。そしてその実が残されていく、2つ目は主イエスの名によって願うことが何でも与えられるということです。これは最後の晩餐で弟子たちに語られたことでした。もうすぐイエスは十字架につけられて殺されるけれども、イエスの愛に留まり続ける人は決して破綻することはない。そして先週の箇所でしたが、15章の1節から主イエスが私たちを選んでくださってぶどうの枝としてくださった。それは実を結ぶためなのです。それも豊かに実を結ぶためです。神がある人を選ばれるのは、その人を通して、さらに他の人々に救いを伝えようとしているのです。その中で大切なことを主イエスは言っておられます。
17節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。
私たち一人ひとりの中に「互いに愛し合いなさい」という主イエスの教えが実現するときに復活のイエスは私たちの中で生き続けてくださるのです。そして11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。主イエスが言いたかったことはここに集約されています。私たちがいつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、主は私たちを選んでくださったのです。