今日の箇所で主イエスはぶどうの木を用いてたとえ話をしています。ぶどうは教会でシンボルとしてよく用いられています。
なぜでしょうか?
ぶどうは温暖な地に生い茂ります。その実からワインが出来るわけですが、健康に良く、活力を与えます。そうしたことから古代オリエントでは健康と富のシンボルであったようです。古代メソポタミアではぶどうの木というのは「生命の草」と同じ意味を持っていたといわれます。
では聖書ではどういう意味を持っていたかというと、旧約聖書には実に多くの箇所にぶどうが出てきます。出エジプト記、民数記、詩編、雅歌、イザヤ書、ホセア書などですが、ひとつは「選ばれた民」のシンボルでした。ぶどう畑は天と地を結びつける「神の愛のしるし」としても描かれています。新約聖書にもイエスの「ぶどう園のたとえ話」があります。
今日の箇所では主イエスご自身が「まことのぶどうの木」であると言われます。ぶどうの木は中東では珍しい植物ではありません。誰もが身近に見ることができるものです。そしてぶどうの木と言うのは大木ではありません。パレスティナ地方では最も丈の低い植物です。主イエスがなぜこの小さなぶどうの木にご自分をなぞらえたのかを考えながら今日の箇所に聴きましょう。
7節の途中に目をやると、実に私たちをわくわくさせるような言葉が記されてあります。それは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」というところです。私たちには願いがたくさんあります。個人的で身近な願いに始まり、「この世界に平和が来ますように」「貧困や差別がなくなりますように」など大きな願いまで、私たちもいつも礼拝の中で祈っているような事柄にも希望の光が与えられる。主イエスがいわば太鼓判を押してこう言ってくださることは、明日をも信じられないような世界に生きている私たちにとって安心する言葉です。
しかし、ここには条件が付けられているのです。それが7節の前半です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば・・・・・・」というものです。ですから主イエスにいつもつながっていなければならない。けれども私たち人間というのはいつも「絶対に・・・」ということはないのですね。良い時があれば、悪い時もありますから、主イエスにまっすぐ心を向ける日もあれば、そうでない日もある。
でも主イエスはこのように教えてくださいます。その前の4節のところです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。そうです。主イエスの側で私たちの手を握っていてくださる。そのあとにはこうあります。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。私たちのほうで意図的にではなくても、主のみ手を離してしまうことがあるでしょう。しかし、主のほうでは手を決して離されないのです。こうして私たちは主イエスにつながることをゆるされています。
今日の箇所の中には幾度も「つながって」という言葉が出てきます。この言葉は原語で「メノー」という言葉なのですが、「つながる」「留まる」とか「〜の中にいる」「住む」「宿る」というようないくつもの意味のある言葉です。特にこのヨハネによる福音書には40回も出てくる言葉です。それは主イエスと私たちとの関係を言いあらわす大切な言葉です。私たちが誰かと行動を共にするとか、誰かとつながるという時に「信頼」することなしにそのような行動を起こすことはないでしょう。もっとも一時の気分で左右されてしまうようなことがあるかもしれませんが、信頼できないところでは腰を落ちつけたり、地に足をつけることができないものです。私たちは信頼関係があってはじめて人に心を許すことができます。ことさら主イエスがここで「わたしにつながっていなさい」と言われるのは「わたしを信じなさい」「信頼しなさい」という呼びかけです。ではどうしてこのように「つながっていなさい」という言葉が何回も繰り返されるのでしょうか。
それには理由がありました。このぶどうの木の話は主イエスがあの最後の晩餐の席上で語られたもので、いわば主イエスの「遺言」であり最後の言葉でありました。このあとしばらくして主イエスは捕らえられて十字架につけられます。弟子たちから主イエスはあっけなく取り去られていきます。主イエスが逮捕されて弟子たちは大混乱に陥ってバラバラになって行きましたが、けれども主イエスにはそうなることが判っていたのでしょう。そして何よりも愛する弟子たちとつながっていたかったのです。主イエスの十字架の出来事は弟子たちのマイナス面を暴露することになったのでした。みんな逃げ出してしまって十字架の主についていくことが出来ませんでした。
それでも主イエスは繰り返し言われます。
「わたしにつながっていなさい」。
決して主イエスは手を離されないのです。弟子たちはみんな仕事を棄てて、故郷に家族をおいてまでして主に従っていました。みんな主に大きな信頼を寄せて、人生をかけて従ってきたはずです。
ルカによる福音書の22章33節でペトロはこのように言っていました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。しかし皆さんご存じのようにペトロの自信や自負はすぐにそのあとで崩れ去ります。他の多くの弟子たちも主イエスにつながり続けることが出来なかった。皆自分から主を捨てて行ったのです。
この出来事は私たちにも当てはまることです。私たちは「自力」で主イエスにつながり続けることは出来ないのです。それはただ主イエスの愛とゆるしのもとにつながることが出来るのです。ペトロは復活の命を与えられたキリストに「わたしを愛しているか」と3回も尋ねられるのです。これはペトロの仕出かしたことを赦す言葉であるのと同時にペトロの持つ弱さを包み込む言葉でした。
今日の箇所はヨハネ福音書が記された当時、迫害や苦難が迫る中で、不安にさらされながらもなお教会にとどまろうとする人々を、どんなに慰め励ましたことでしょう。たとえ、命を脅かす苦難にさらされたとしても、主イエスから離れずにとどまることが、ほんとうの命と祝福にあずかることになる、と主イエスは宣言されるのです。今、私たちはイースターからペンテコステまでの復活節を歩んでいます。今この時期になぜここを読むのかといえば、それは復活された主イエスが天に昇られても、聖霊を送ってくださることにより主イエスにつながることが出来るということを私たちが知るためです。
では私たちはどうしたら主イエスにつながり続けられるのでしょうか。主イエスが手を離されないならそれで良いのでしょうか。2節にはこうあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。私たちがもっと豊かに実を結ぶようになるために、日々祈り、聖書に親しみ、そして主イエスの教えを普段の生活の中で生かしていくことも大切でしょう。しかし最も主イエスとつながる最善のことは今私たちがしております「礼拝」を捧げることです。主イエスが私たちに手を差し伸べてくださり、私たちはその手をしっかり握り締めるこれこそが礼拝の喜びです。礼拝において私たちは主イエスに出会うのです。
昨日、親しくしている牧師が最近これから洗礼を受けられる人たちに向けて書かれた本を読んでおりましたら、その友人の牧師が洗礼を受けた時のことが書かれてありました。その先生の父親でもある牧師から洗礼を受ける際に、一つのことを言われたそうです。「それは一生、礼拝を捧げ続けられるか」という言葉であったそうです。
マザー・テレサは一日の初めにミサ(礼拝)においてパンとぶどう液に与ってイエスと一致をして外へと出て行き(勤めに赴き)ましたが、この毎朝の礼拝がマザーのあの小さな身体の原動力になっているとの彼女の言葉が遺されています。主イエスが小さなぶどうの木にご自身をなぞらえたのは、私たちよりももっと小さな姿になって宿ってくださるからです。
今朝この礼拝で聖餐を祝います。それは小さな姿となったキリストのパンとぶどう液かもしれません。そしてリモートで礼拝に出席しておられる方と共に聖餐に与ることができないのは、今の私たちの苦しみでもあります。しかしこれに霊的に与ることもできるのです。私たちの心でパンと杯を受けるのです。やがて主イエスをいただいた私たちの枝が伸びて、つるが伸びて大きな収穫を得ることが出来るのです。しかも人の渇きを潤す実をたくさん付けるのがぶどうの木です。
最後に8節のところです。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。主を心に宿した私たちは「神の栄光のために」互いに仕え合うのです。
「わたしにつながっていなさい」。