2021.04.04

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「さあ、行って、告げなさい」

中村吉基

イザヤ書 25:6〜9マルコによる福音書 16:1〜8

 皆さん、イースターおめでとうございます。

 イエス・キリストは金曜日に、敵対者たちの手に渡され、十字架でその生涯を終えられました。しかし、今日の箇所によれば、日曜日の朝早く女性たちが主イエスの葬られていた墓を訪ねると、「白い長い衣を着た若者」が女性たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)と告げるのです。

 今日、私たちはこのよみがえられたイエス・キリストを仰ぎつつ、み言葉を通して、主イエスを死からよみがえらせた神の力に共にあずかりたいと願います。「死んだ人がよみがえるなんてあり得ない!」。はじめは誰もがそう思ったことでしょう。今日の福音は主イエスの復活を知らされたさまざまな人がとった行動を記しています。

 冒頭にこう書かれてあります。週の初めの日(日曜日)の朝ごく早く、主イエスに従っていた女性たち――マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、前もって準備していた香料を手にして、主イエスの亡骸を納めてあった墓に向かいました。主イエスが息を引き取られて間もなく、安息日(金曜の日没から土曜の日没まで。一切の労働を休み、神を礼拝する日)になってしまったために、イエスの亡骸を清めることができなかったことが気がかりでした。

 この墓というのは洞穴のようなところに大きな石をころがして、ふたをするような大規模のものです。しかしこの3人が墓に着いてみると、大きなふたをしていた石がわきに転がしてあるのを目にします。つまり墓の入り口は開いていました。3人はその中に入ってみますが、そこにあるはずの主イエスの亡骸はなく、「白い長い衣を着た若者」が座っていました。3人は驚きを隠せませんでした。彼女たちにこの「若者」は語りかけます。

 6節以下です。

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。

 これを聴いた女性たちはどうしたでしょうか。8節に記されてあります。

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 この「震え上がり、正気を失っていた」というところを他の聖書ではこう訳されています。「われを失うほど恐れおののいていた」(フランシスコ会訳)、「おびえて気が動転していた」(本田訳)。

 私たちは今年の受難節に入り、この礼拝でマルコによる福音書から聴き続けてきましたが、このマルコ福音書の最後の言葉(9〜20節までは後代の付加と考えられている)がこのように記されていることは私たちにとってはいささか驚いてしまうのはないでしょうか。主イエスが神の力によって復活させられたと若者によって告げられたにもかかわらず、3人の女性たちは喜んだのではなかったのです。それどころか、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 イエスの復活の出来事は4つの福音書すべてに記されています。主イエスの復活を「恐怖」をもって受けとめるのはマルコ福音書にしか見られない光景であるので、あまり礼拝で読まれることがないのです。私たちは主イエスの復活を「告げ知らせる」女性たちの姿をよく知っています。たとえばヨハネ福音書20章2節はこのように告げています。

「走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません』」。

 マグダラのマリアが最初の復活の証言者となります。マタイ福音書ではこう記されてあります。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(28:8)。

 しかし、私はここを何度も読んでいるうちにマルコ福音書は正直な人間の姿を伝えていると感じました。ここに記されている「逃げ去った」「震え上がった」「正気を失った」「何も言わなかった」「恐ろしかった」という5つの言葉は今まで人間が復活することなど信じられなかった人がとる当然の行動のようにも思えるからです。

 マルコ福音書は民衆に大きく支持を広げていったイエスの姿が一転して十字架刑に処せられるという明暗を強調して記しています。ある聖書学者はマルコ福音書の読者というのは、ユダヤ教徒と異教徒の両方に迫害される危険を抱えていたと言います。つまりそういう状況に置かれていた最初のキリスト者たちにイエスもまた、同じように迫害され、殺されて行ったということをストレートに伝えるほうが読者を勇気づけることになるだろうとマルコ福音書の著者は考えたのだというのです。そのことを考慮すると、最初のキリスト者たちも自分に追って来る迫害の手に「逃げ去った」「震え上がった」「正気を失った」「何も言わなかった」「恐ろしかった」と感じたのではないでしょうか。

 あのゴルゴタの丘での残忍なイエスの死刑を今日の箇所に出てくる3人の女性も見ていたはずです。それから2日も経っていないのです。ですから墓の中にいた若者に「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」とイエスの復活の事実を語られてもすぐにそれができないでいたのです。

 もしかしたらこの姿は私たちの姿にとても似ているかもしれないのです。私たちも何かから逃げ、震え、正気を失い、沈黙し、恐怖を感じているのです。パウロの言葉にこういうものがあります。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」コリント二 12:9)。パウロは十字架で死なれた主イエスの姿に、神の前における罪人の「弱さ」を見ています。そしてそれと同じ「弱さ」を抱える私たち人間の救いのために自ら「弱さ」を身に受けて死んでくださったキリストに「強さ」「神の力(栄光)」を見出しました。

 主イエスは十字架にお架かりになる前に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と仰せになっておられました(14:28)。そのお言葉を思い出させるのが、7節の「白い長い衣を着た若者」の言葉です。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。このガリラヤで主イエスが逃亡していた弟子たちにお会いになります。一人またひとりとガリラヤに集められてきます。みんながみんな弱さを抱えたどうしようにもない人間だったかもしれません。しかしマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるようにそこからキリストの強さを得た人間たちが最初の教会共同体の一員として動き出していきました。

 私たちもそれぞれに弱さを担い、またさまざまなところからこの教会を形成しています。最初の弟子たち、教会もそうでした。決してそこは力強く、いわゆる成功している人たちの集団ではありませんでした。しかしそこにこそ、御自ら「弱さ」を身に受けて死んでくださったキリストの「強さ」が光り輝いています。

墓に立っていた若者はここにいる私たち一人ひとりにも告げられます。

「さあ、行って、告げなさい」。


 
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