今日から受難週(Holy Week)に入ります。イエス・キリストが十字架への道を進まれる1週間です。受難の出来事は4つの福音書すべてに記されてありますが、それぞれに個性があって記し方は違います。福音書を記した人たちは、まずこの主イエスの受難と死と復活というところから書き始めたのです。そのあとで主イエスの誕生物語や生涯の記録が加わっていった。まさにこの受難週に起こったことは強烈な印象として弟子たちの心に残っていたのではないでしょうか。そしてこの出来事を人々に伝えたいと願ったのではないかと思うのです。
弟子たちは師である主イエスを失って辛かったでしょう。人間は誰でも例外なく辛いことや苦しいことを経験します。自分は真面目にやっていて、悪いこともしていないのに不幸な目に遭うこともあります。身近な人を亡くしたり、事故にあったり、病気になったりします。そして私たちの周りを見れば、この世の中には多くの人が苦しみを受けています。正しい人が、悪い人によって苦しめられることもあります。いつも私たちは祈ります。被災者、戦争の犠牲者、犯罪被害者、病気の人びと、差別される人びと、今日1日の食事にも事欠き、飢えや寒さでいのちを落とす人びと。このような状況を見て、主イエスが十字架上で、(先週の礼拝で聴きましたが)詩編22編を唱えられたと言われていますが、「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか?」と私たちもまた問いたくなり、あるいは「神は本当にいるのだろうか?」という思いになるのではないでしょうか。なぜ神がいるならこんなに不条理なことが起こり、苦しみが続くのか、という思いにかられます。またある人びとはそのことを理由に神を信じようとはしません。
私たち人間はとても勝手なところがあります。順調にいっているとき、追い風が吹いているときは神を信じ、教会にも来て、祈る気持ちにもなります。ところが苦しいことが起こり、いざ逆風が吹くと、祈る気持ちさえ起こせず、教会に行く足もピタリと止まってしまう。私たちは実に都合よく神を信仰し、利用しているのではないかとさえ思わされます。けれども耐えられない苦しみにあえぐ人がそういう気持ちになっても仕方がないところがあります。そんな時に、神は本当に苦しみにある人々を見捨てるのでしょうか? 私たちが毎日あえいでいるその姿を神は黙って見て、放っておかれるのでしょうか。本当に神はおられないのでしょうか?
そうではありません。それどころか神の子イエス・キリストが私たち人間の苦しみを、それも十字架という最も極刑にある仕方で担ってくださったのです。主イエスはユダヤ人の祭りの中で最も盛大に祝われる過越祭にさしかかった金曜日に十字架で死なれました。それはエルサレムの郊外のゴルゴタ(されこうべの場所)の丘の上であったと今日の箇所の前の22節には記されてあります。
今日の15章を最初から読むと、ユダヤ人の指導的にある立場の祭司や長老、サドカイ派、ファリサイ派の人々のイエスに対する敵意について記されています(1〜5節)。彼らはイエスの人気を妬み、憎み続けていました。主イエスの周りには大勢の人々が集まり、彼らは自分たちの地位が危ないと感じて、イエスを抹殺しようとしたのです。また主イエスの教えは彼らの生き方の根底から悔い改めを求めるものでした。人は誰でも自己正当化しようとする心の動きが常にあるといえます。そして自分よりも人気があるとか、成功しているとか、優秀な人に対して嫉妬する気持ちがあります。彼らは考えに考えてイエスを宗教裁判にかけ、偽の証人を立ててまで、主イエスを有罪にして、死刑執行を総督ピラトに迫ったのでした。
今日、私たちは棕梠の主日を祝っています。礼拝堂にも棕梠の葉を掲げていますが、日曜日に主イエスが小さなロバに乗ってエルサレムに来られたときに民衆は木々の葉を地面に敷き、枝を手に持って「ホサナ」(どうか、救ってください)を叫んで主イエスの到来を歓迎したのにも関わらず、数日後に民衆は祭司や長老たちにそそのかされて(イエスを)「十字架につけよ」と叫んでいたのです。私たちは一人で出来なくても、集団で寄って、たかって悪を平気で行うことがあります。これは立派な暴力です。その悪が人々に向けられるということは恐ろしい罪です。人間の弱さがそこにあらわれているといえます。
ピラトはイエスに罪は無く、イエスを妬む人々によって訴えられていることを知っていました。しかし、群衆による騒動が起こって、彼は一人の罪なき人が助けられることよりも、自分の地位や立場を心配しました。そして主イエスを十字架に処することを決めたのです。これは弱い者を切り捨て、強い者が生き延びて行こうとする。ピラトは自分の責任を捨てて、自分を守る方向へと走りました。以上のことが、主イエスが十字架での死に至った理由です。
今お話ししたユダヤ人の指導者、群衆、ピラトに共通するものは自己中心主義です。「自分が、自分が……」というそれぞれの気持ちが主イエスを十字架にはりつけにしたのです。彼らと同じ自己中心の思いは今を生きる私たちの中にも生きています。主イエスは私たちの罪のために十字架に架かられたのはこの私の中にも生きている自己中心的な思いの罪のゆえなのです。
主イエスは重い十字架を背負わされてゴルゴタの丘ではりつけにされるまで、すこしも逆らわず、ただ黙って歩いていかれました。神の子としての力はそこで何一つお使いにはなりませんでした。
私たちは「なぜ苦しむのか」ということを考えたときに、苦しみは人間の罪によって生み出されたのです。その私たち人間の罪をゆるし、悪をほろぼすために主イエスは十字架にお架かりになりました。それが神のみ心でした。
39節をごらんください。主イエスが亡くなった時に百人隊長たちは「本当に、この人は神の子だった」と言いました。「神であり人である」、救い主キリストはそういうお方です。「神であり人である」とは私たちにとっては嬉しいことです。主イエスを通して神から伸ばした手と、私たちが伸ばした手が本当につながることができるのです。
皆さんはヴァティカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの作品「アダムの創造」という絵をご存知でしょうか。私は、十字架のキリストを黙想するときに、この絵を思い浮かべました。神から差し伸べられた手にすがろうと必死に手を伸ばすアダムの姿が描かれています。神の手にアダムが触れた瞬間に、神から生命がアダムに与えられようとしている作品です。神の指とアダムの指が触れ合っているこの絵を見てスピルバーグ監督はE.T.と少年が指を触れ合うシーンが出来たとも言われていますが、主イエスと言う神であり人であるお方を通して、私たちは神につながり続けることが出来るのです。
私たちが本当に苦しく辛い思いをしている時に神は見捨てることのないお方です。私たちは、神に「助けてください」と素直に言っていいのです。「ホサナ、どうか救ってください」と叫びをあげていいのです。私たちが十字架を見つめるとき、十字架で手をいっぱいに広げて死なれたキリストが必ず皆さん一人一人を受け止めて下さるでしょう。