2017年のことでした。韓国で性的マイノリティ(LGBTQ)の支援をしているL牧師(韓国キリスト教長老会所属)が、彼女の所属教団ではない、大韓イエス教長老会など8つの教派から「異端的な思想を持っている人物だと宣告されたのです。L牧師は、性的マイノリティの人権擁護活動に従事し、またQueer神学と呼ばれる性的マイノリティ関連の聖書注解書の翻訳に携わったことから「異端」であるとされたのです。「L牧師の説教を聴きに行ってはダメだ」「L牧師の教会に関わってはいけない」などなど多くの信徒たちは所属教会の牧師たちから命じられました。もしそれを破ったならば処罰されると・・・・・。私は彼女の友人の一人としてその痛みを自分の痛みのように感じるのです。
韓国社会において性的マイノリティを最も迫害している勢力は、たいへん残念なことに「キリスト教会」なのです。人を助けるはずの教会が、人を裁き、差別している現状を私たちは知らなければならないでしょう。この21世紀に魔女狩りのようなことを平気でする教会が存在しているのだと思うと震撼せざるを得ませんが、私たちのプロテスタント教会も宗教改革の当時、マルティン・ルターはカトリック教会から「異端」とされました。しかし現在では教会一致運動(エキュメニカル運動=一緒の船に乗る、この世界に共に住むというのが原語の意です)の成果もあり、カトリック教会もプロテスタントの諸教派も今までになかったくらいに歩み寄っています。けれども韓国では、皮肉にも性的マイノリティを迫害するために諸教会は一致するということが起こっていますし、各教団は性的マイノリティのための莫大な「迫害予算」を設けているのです。
さて、今日のエフェソの信徒への手紙が書かれた背景は当時、ユダヤ人のキリスト者と異邦に住むキリスト者との間に確執があったのからでした。さまざまな意見の食い違い……それは信心のこと、律法への態度についてなどどうしても一致することができなかったのです。
そこでパウロがしたためたのがこの手紙でした。
ここでは「キリストの平和とは何か」ということを基本にしてしたためられているのです。今日の箇所は冒頭のところで「あなたがたは、以前は」と書き始められています。3節のところにも「わたしたちも、こういう者たちの中にいて、以前は」と記されています。これは、神や主イエスを知らなかったかつての私たちのことにも相当します。教会に来る前に、どのような生き方をしてきたのか。そのことを告げています。「“以前は”この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、悪のとりことなっていた」。ちょっと「どぎつい」言い方をされて納得できないかもしれません。でも私たちも「死んでいた」のでした。神と私たちの関係は死んでいたのです。もちろん、その時も心臓は動いていましたし、呼吸もしていたはずです。そして何か特別に自堕落な生活をしていたのではないでしょう。けれでも聖書では神と私たちとが結ばれていない状態――それを「死んでいる」というのです。私たちの心の奥底に息吹がないのです。身体は生きているけれども、「死んでいる」というのです。
パウロは3節で「わたしたちは、皆、こういう者たちの中にいて」と言います。この「わたしたち」という中に、かつてのパウロもいたことを明らかにしています。パウロは、自分を例外にしません。パウロも「死んでいた」のです。ご存じのようにかつてのパウロも自分の生き方は間違ってはおらず、神に従っていました。ユダヤ人として神の戒めに従って信仰を持って生きていました。だからこそイエスをキリストとして、真の神の子として信じる人が次々に増えて行くのが許せなかったのでしょう。キリスト者たちを迫害し、次々に捕らえ、苦しめることが何よりも彼の「喜び」であったのです。むなしいことです。そのパウロは自分もかつては、罪の支配の中に生きていた、本来の姿を見失って「死んでいた」のだというのです。今日の箇所の中で「あなたがた」という言葉と、パウロ自身を含めた「わたしたち」という言葉が交互に使われています。「わたしたちも、皆」という言葉にパウロも含めこの罪と無関係なものは、この世界の中で誰一人としていないことを示しています。私たちの周りには悪い人ばかりがいるのではないけれども、しかし、パウロはただ罪の深さを明らかにしているのではありません。私たち今は死んでいない。神によって生かされているのだ。「死んでいた」のは過去のことです。もうすでに終わりました。人間の弱さがどれほど深くて大きくても、神は私たちを愛し続けてくださった。神とはいかにいつくしみ深いのかということです。だからパウロはこう宣言します。4〜6節をごらんください。
また終わりの10節には「なぜなら、わたしたちは神によって造られたものであり」とあるのですが、かつての口語訳では「わたしたちは神の作品」と訳されていました。どんな人、どんなものにも優劣はないのです。
もし皆さんが初対面の人に接するときに、その人のどんな情報がまず目に映るかと言うと、容姿、容貌、だいたいの年恰好とか、ほとんど外見で判断をします。それからどこの出身の人とか、どんな仕事をしている人とか、どんな学校で学んだとか、たったそれだけの情報でその人のことがまるですべて判ったかのように「誤解」してしまうことがあります。
人生を長く歩んできた人でも未熟な考えを持っている人がいますし、肩書は立派でもモラルが伴っていない人もいますね。実は私たちが目で見たりしているということはあまり大きな意味を持っていないのかもしれません。ではどうして私たちは相手の出身地や学歴のことが気になるのか? 内心で自分と比べるためなのかもしれません。出身地が近いか? 遠いか? どちらが年長だろうか? どちらが偏差値の高い学校を出ているのか? どちらがいい仕事をしているか? どちらのほうの収入が多いのか? などなど自分との優劣を比較しながら、その相手を判断しようとしています。実は差別というのはこんなところから出てくるものです。まずは私たちのほうから、見方を変え、こだわりを捨てなければすべては変わって行かないのです。
アントニー・デ・メロというインド出身のイエズス会の司祭がいました。一説に遠藤周作の小説『深い河』のモデルになった人とも言われています。このデ・メロ神父の著作にこういうことが書かれてあります。
自分の家の庭の芝生を自慢している男がいました。近所の家を見ても自分の家ほどの立派な芝生を持っている庭はどこにもないと自負していました。ところがある時、その芝生の間からタンポポがたくさん生えていることに気がつきました。タンポポに栄養を取られてしまうと芝生が台無しになってしまいます。男は一生懸命タンポポを抜き取ろうとします。でもタンポポは根が深いのですね。途中で根が切れて完全に抜き取れないのです。だから次々にタンポポが生えてきます。しまいには除草剤を撒きましたが、タンポポだけを枯れさせることができません。そこでこの男は植物の専門家に手紙を書いたのです。「どうしたらタンポポを絶滅させることが出来るでしょうか」。やがて返事が返ってきました。その手紙にはこう書いてありました。
「そのタンポポを愛してみてはどうですか」。
実はデ・メロ神父の著書は何冊も日本語に訳されておりますが、彼の著作も読んではならないと教会当局に言い渡されていた時代がありました。
この世界の多くの人は、考えの違う者を排除し、自分のカラーと違う者を受け容れようとはしません。考えの合うもの同士が徒党を組み、それに合わないものを弾き飛ばそうとします。いや、もうこの世界のあちこちで多くの人が弾き飛ばされてしまっているのです。そしてその多くの人が今も傷ついたままです。人知れず劣等感や自分を卑下することで悩んでいます。そうしてせっかく神が与えてくださった一度限りの人生を台無しにしてしまいます。ある人たちは自ら命を絶ちます。そのようなことで報われることや、祝福されることはあり得ません。神がお造りになったこの世界を暗く、悲しいものにしてしまって本当によいのでしょうか。今日、私たちは神の作品であること、そして私は私であって、人と違っていて当たり前なのだ、ということを心に刻みたいのです。