2021.02.14

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「忍耐して実を結ぶ」

廣石望

詩編126編ルカによる福音書 8:5〜8a.11〜15

I

 新型コロナウイルスの大感染が始まって、1年がたちます。世界の死者は240万人に達しました。現代の医療技術をもってしても、これほどの大量死を押しとどめることができないでいます。まるで黒死病に襲われた中世ヨーロッパのように、私たちは小さな社会空間に籠っているより、他に手がありません。革新的技術によって自らの行動範囲をつねに拡大してきた私たちの自尊心は、ひどく傷つけられてしまいました。これまで自由を保証してきた社会や国家の枠組みも、罰則の導入などによって変わりつつあります。

 この間、我慢と忍耐が広く呼びかけられ、皆さんよくがんばってきたと思います。しかし経済的打撃がもたらす社会不安は大きく、人と自由に会えないストレスは大きく、全面オンライン化にはとてもついてゆけず、礼拝堂で賛美歌を満足に歌えないストレスも大きいです。

 なかなか「出口」が見えない中で、私たちは以前よりも反抗的で愚痴っぽくなり、教条主義的で強情になり、他人を差別したり、誹謗中傷するのをより好むようになったかもしれません。同調圧力の強い日本では、コロナに感染した女性が、周囲の中傷を恐れて自ら死を選ぶ事例すらあります。ワクチン接種も富める国々が優先で、差別だらけです。

 こうした難しい現実の中で、本日はルカ福音書が伝える「種蒔き」のたとえとその解釈を通して、そこで「忍耐して実を結ぶ」(15節)と言われていることの意味について、ごいっしょに考えましょう。

II

 種蒔きのたとえはマタイ、マルコ、ルカの福音書、また外典のトマス福音書にも伝えられており、それぞれに個性があります。イエスが歌った元歌を、それぞれの福音書記者がアレンジし、カヴァーヴァージョンとして歌っているのです。とりわけ口頭伝承の段階では、たとえはじっさいに演奏することでのみ伝えることができました。今回はルカによるイエスの「種蒔き」のたとえの、書き言葉レベルでのカヴァー演奏に注目します。

 最初に種蒔く人が登場しますが、彼の種を蒔くだけで舞台を去ります。残されたストーリーの主人公は4つの個々の種です。毎回まず、種がどこそこに「落ちた」と、すなわち「道端」「岩」「いばら」そして「よい地」に落ちたと言われます。

 次には、その後の状況が報告されます。すなわち「踏みつけられた」(道)、「育った」(岩)、「いっしょに育った」(いばら)そして「育った」(よい地)です(――3回出る「育った」を、新共同訳が「芽が出る/伸びる/生え出る」とことごとく訳し分ける理由は不明です。翻訳者のアレンジ力を発揮したいのかもしれません)。

 そして最後に、それぞれの結果が語られます。すなわち「空の鳥たちが食べた」(道)、「(水分がないために)枯れた」(岩)、「いばらが窒息させた」(いばら)、そして「100倍の実をなした」(よい地)です。

 合計4つの種は、最初のものが「ある(種)」、その他は「他の(種)」と言われます。日本語では分かりにくいのですが、「他の」と訳されるギリシア語は、たんに「別の」というより、例えば「右」に対する「左」のように、もうひとつの選択肢をさす表現です。つまり第2の種は第1の種の唯一の代替案であり、第3は第2の、そして第4の種は第3の種の代案です。それぞれの失敗に、あたかもそのつど「今度こそ!」とピンチヒッターが出てくるかのようです。

 そして最初の種は育つ前に鳥に喰われますが、その他の3つは皆「育ち」ます。とはいうものの、そのうちの2つは枯れたり、窒息したりで結実には至らず、第4の種だけが「100倍の実をなした」――そういうストーリーです。

 4つの種のそれぞれの個別性が強調されています。種がこの世界の命のシンボルであるなら、それはかけがえがない個々の命です。他方で、個々の命が辿る運命の落差もまた――ウィルス感染のサバイバーと死者たちがいるのと同様に――見まごうことなく存在します。にもかかわらず、あらゆる命は本来「育つ」こと、そして「100倍の実をなす」ことが、つまりその本質を純粋かつ完全に展開することが期待されています。種には、もともとその可能性が秘められています。これは、ほどほどの成果が得られれば、小さな損失は忘れてよいという話ではありません。

 私たちは、イエスを死に追いやった無関心と攻撃性が自分の内側にもあることを自覚しつつ、例えば自分の自由の最大化のためなら、他の人々が少々感染しても仕方ないとは考えたくないですし、またあってはならない差別に対してはちゃんと否と言いたいと思います。

III

 ルカのイエスによるたとえの解き明かしに移りましょう。冒頭に「種は神の言葉である」とあります。神から来て、イエスが告げる言葉という意味でしょう。

 それぞれの段落で、まず種の落ちた場所が言われ、次に、それぞれの場所の人々が「神の言葉」を「聞いた」と言われます。第4の種については「美しい、よい心で聞いた」と特別な形容がついています。そして最後に、神の言葉を聞いたことへの反応として、その人々に何が起こったかが物語られます。

 すなわち、道端に落ちて鳥に喰われた者たちのもとには「後からサタンが来て、彼らの心から御言葉を奪う」ことが生じます。岩の上に落ちて枯れた者たちは、「喜んで御言葉を受け入れる〔が〕……その場限りに信じており、試練の時には脱落する」とあります。たとえの「水分がないので」は、解き明かしの「彼らは根をもたない」に対応しています。

 いばらの中に落ちて窒息した者たちは、「思い煩いと富みと生の快楽によって、歩みを進める中で、窒息させられ、終わりまで保たない」と言われます。

 これに対して、よい地の種の者たちは「御言葉を保ち、忍耐(/不屈)のうちに実りをもたらす」――これが、ルカのイエスによるたとえの再話的な解き明かしです。

 最初の道端の種は、御言葉を聞いた者たちの「心から」奪われる一方で、最後のよい地の種の者たちは「美しい、よい心の中で御言葉を聞く」とあります。「心」が御言葉を受けとる場所なのです。つまりイエスは種(御言葉)を蒔き、聞く者たちは心の中でその種を受け、その心から信仰(者)が育ちます。心の信仰のあり方が、ルカの解き明かしの主題です。

 そのさい、サタンが聞く者たちの心から御言葉を奪うのは、「彼らが信じて救われることのないため」です。他方で、2番目以降の3つの種について、たとえに「育った」とあることに、解き明かしでは御言葉に信頼を寄せること、つまり信仰をもつことが対応しています。「喜んで御言葉を受け入れる」(岩)、「歩みを進める」(いばら――新共同訳「途中で」)、そして「(御言葉を)保つ」(よい地――新共同訳「よく守り」)とあるとおりです。

 これらの描写を見れば、信仰が決して信仰者の所有物にならないこと、信仰とはむしろ道であり、信仰に歩む者がつねに途上にある存在であることが明らかです。御言葉を喜んで受け入れても、「その場限りに信じる」ならば、外から試練が来るときに信仰から脱落することがありえます。また信仰の道を歩んでいても、内面の思い煩いその他によって、その人の息の根が止められてしまうことも起こります。

 いばらの種について、新共同訳が「実が熟するまでにいたらない」と意訳するギリシア語の原語は「終わりまで運ぶ」であり、医学用語としては「胎児を出産まで子宮内に保持する」の意があります。ならば、よい地に落ちた種の者たちは、御言葉を心の中に赤ちゃんのように保つと考えてよいでしょうか。そして「忍耐(/不屈)のうちに実りをもたらす」。

IV

 では、「忍耐」とは、「実り」とは何のことでしょうか?――ルカ福音書では、たとえのユニットに、イエスの親族についてのエピソードが続きます。そこでイエスは「私の母、私の兄弟たち、それは神の言葉を聞き、そして行う者たちだ」と宣言します(8:21)。つまり神の言葉は、血縁に代わる「神の家族」としての開かれた教会共同体を形成します。忍耐と実りもまた、共同体の生に関係するでしょう。そのさい、「聞く」と「行う」の動詞の形から見て(ともに現在分詞)、まず聞いて命令を理解し、次にそれを実行に移すという2段ステップというより、聞くことと行うことがむしろ同時並行的に生じるようです。

 つい先日、上智大学のウェビナーに参加しました。ドイツのフライブルク大学神学部のカリタス学・社会福祉学科との共催プログラムで、近年まで内戦が続いたブルンジ出身のカトリック司祭の方が講演されました。彼は教会と大学の協働を通して、諸民族の交流と和解、難民を含む被迫害者への支援、社会開発的な支援を行うことのチャレンジと重要性、その研究と成果出版にふれ、さまざまな具体的活動を紹介されました。わたしが前任校で長年引率していたインド・スタディツアー先で見た活動とそっくりで、驚きました。

 しかし講演にもまして印象的だったのが、その後の質疑応答の中で、内戦でずたずたに引き裂かれた社会を再建するためには、「正義、真理の発見、赦し、そして和解」が不可欠であることをめぐる質疑応答でした。被害者のトラウマ支援が真っ先になされるべきであること、しかし、その後に赦しと和解が続くべきであり、それがあって初めて社会に正義をとりもどすことができるといった話です。そして、こうした討論をする無言の前提は、教会にはそれを担う使命が神から託されているという共通認識です。  こうしたプロセスを皆で力を合わせて担うには、必ず平和を実現するという不屈の希望と、長く続く痛みと苦しみを共に担う忍耐と、耳を傾けつつ行動し・行動しつつ聞くという寄り添う姿勢が必要です。――それは、コロナのせいで活動が制限されている私たちにとっても同じです。


 
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