2021.01.10

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「新しく生まれる」

中村吉基

創世記 1:1〜5マルコによる福音書 1:9〜11

 私たちの人生には、その節目、節目にセレモニーがあります。それが入学式であったり、成人式であったり、結婚式であったりするわけですが、キリスト者にとっては洗礼を受けたことも、とても大切な節目となったわけです。主イエスの生涯を見るときに、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、洗礼をお受けになったということも大きな節目でありました。主イエスはそれまで、ナザレにおいて大工として生活をしておられたわけですが、この洗礼を契機として、人々に神の国の福音を宣べ伝えていくようになりました(これを「公生涯」「公生活」といいます)。今日、私たちは主イエスの洗礼の出来事を通して、神の恵みということについて聖書から聴きましょう。

 洗礼者ヨハネは、荒れ野に出て、人々に向かって、これまで神に背を向けて生きてきた生き方を転換して、そのことを悔い改めて洗礼を受けるように促していました。ヨルダン川で一人ひとりの全身を水に沈め、新しい生き方を始めるスタートとなる洗礼を多くの人に授けていました。ある時、ヨハネのもとに集まってきていた人々に交じって、主イエスがガリラヤからやってきました。

 今日の箇所の前のところになりますが、マルコによる福音書1章7節以下でヨハネはこう言っています。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」

 ヨハネの眼から見て罪のない主イエスが悔い改めのしるしとしての洗礼を受ける必要がないと思っていたのです。主イエスも人々と同じようにして洗礼を受けることを願いました。主が希望されたとおりにヨハネは洗礼を授けました。すると水から上がられた主イエスに天から鳩のように神の霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」11節)という天からの声を聴きます。

 神は罪を背負う人々と同じようにして洗礼を受けられた主イエスをこの上もなく喜ばれ、受け入れられました。主イエスが洗礼を受けられたということは神の子でありながら、私たち人間と同じように歩み、同じ目線で、同じ姿で、同じ立場で生きられた主イエスの姿勢をよく表しています。それと同時に、自ら一歩進み出て、ご自分の意志で洗礼をお受けになったことで、聖霊が与えられた。もう少し判りやすく言えば自分で決断して進み行くところに神の祝福が与えられる、ということです。

 このあと主イエスは荒れ野に出て、そして神の国の福音を宣べ伝えて行きます。ヨハネはザカリアというユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、それはいわゆるエリートの一家で、宗教的な祭儀を司っていた家柄に生まれました。当然、ヨハネもその祭司職を継ぐものと考えられていましたが、彼は聖所にこもる祭司の仕事ではなく、荒れ野に出て救い主の到来を人々に伝えました。

 主イエスと洗礼者ヨハネは共々に、神の力である聖霊が与えられ、神の祝福を受けられました。私たちの生き方も、今日の聖書の箇所を読むときに振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。今、自分の前に敷かれたレールを走っていればそれでいい、あるいは暖かい部屋でゆっくり過ごせばいい、そのように思いがちです。一歩自分の置かれた場所から進み出ていく、すなわち行ったこともない「荒れ野」に出て行くことが求められているのではないでしょうか。そこで恐れることはありません。神は、皆さんお一人お一人を愛しておられて、主イエスのみならず、皆さんにも「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださるのです。安心して進んで行って良いのです。

 さて、主イエスの洗礼にならって、キリスト教会も2000年間、洗礼を大切に受け継ぎ、守ってきました。洗礼と聖餐は私たちの教会の「いのち」とも言うべき礼典です。私たちの礼拝堂に昨年末洗礼台が備えられましたが、洗礼(台)と聖餐(卓)、そして神のみ言葉を取り次ぐこの説教壇、私たちはいつもこの3つを大切に見つめながら、神を礼拝するのです。洗礼は今日では礼拝の中で、祈りの言葉と共に頭に水を注ぐというやり方も多くありますが、教派によっては、川や海で、あるいは教会の中にある浴槽のような洗礼槽で全身水に浸して洗礼(浸礼)を授ける場合もあります。

 水というものは、自然の中で大きな力を持っています。これまでにも水害によって生活の基盤を失われた地域や人々が大勢おられました。水は多くを飲み込んでそれを滅ぼすという力もあるわけですが、人間が水の中に沈むといのちを落とす原因になります。それと同じように、洗礼によって水の中に沈められるということは、今までの自分が一度死んで、そして水から上がるときには、新しく生まれるということを意味しています。もちろん本当に死んで、それが復活するというのではなく、神の恵みによって、神を知らずに歩んでいたこれまでとはまったく違う、新しい自分に変えていただくということをあらわすのです。また水の力は、汚れたものを洗い流すというところにあります。私たちの日常を見ても、手を洗うことに始まり、洗濯や食器を洗うことや入浴に至るまで、この水の大切さはよく知っているでしょう。

 しかし洗礼はただ、汚れを落とすと言うものではなく自分の悪い部分や生活ときっぱり訣別することも表しています。よく悪しき習慣などを改めるときに「足を洗った」などと言いますが、この言葉にも今までのことをきっぱりとやめるというような意味もあろうかと思います。そして、「私はイエス・キリストと共に歩む」という決意を表すのが洗礼です。よく教会で「わたしはまだ洗礼を受けるような人間にはなっていません」と言われる方を見受けますが、洗礼は入学式であって、なにか最後に免許証を与えるというような授与式のようなものではありません。「私は新しく神と共に歩む」という決心の日であるのです。

 さて、皆さんの中で洗礼を受けておられる方々はご自身の洗礼を受けた日のことを覚えておられるでしょうか。それはいつのことで、どこで受けられましたか。誰かが一緒にいたとか。授けた牧師は誰でしたでしょうか。その時、何を思いどう感じられましたか。物心つかないころに親の信仰によって幼児洗礼を受けられ、記憶にないという方もおられると思います。しかし、その親の信仰による洗礼を自分のものとして受け入れた信仰告白式、堅信礼の記憶はあるでしょう。今日、主の洗礼を覚えるこの日に、ぜひ自分の洗礼を受けた日を思い起こしていただきたいと思います。今日の箇所から聴きましたように主イエスもその活動のはじめに洗礼を受け、洗礼から力を受けていったのです。

 

【洗礼の約束の更新の祈り】

今、目をとじて私たちがそれぞれに洗礼を受けた日のことを思い起こしましょう(まだ洗礼をお受けになっておられない方はイエス様が今日私たちにかけてくださった言葉を心に留めて黙想しましょう)。

(祈りましょう)イエス・キリストのいのちの源である神、私たちに洗礼の恵みを通して新しいいのちを与え、私たちがあなたへと向き直す機会を与えてくださいました。あなたの恵みによって私たちがいつまでもイエス・キリストに結ばれていることができますように、お導きください。聖名によって祈ります。アーメン。


 
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