2021.01.03

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「小さな人々の中に生きるキリスト」

中村吉基

コヘレトの言葉 3:1〜13マタイによる福音書 25:31〜46

 皆さん、新年おめでとうございます。

 クリスマスの頃になると、教会ではトルストイの「愛あるところに神あり」(「靴屋のマルチン」「マルチンおじさん」という名で親しまれています)の劇がよくなされます。この話の中にクリスマスという言葉は一つも出てきませんが、救い主を待ち望むマルチンの姿が描かれます。

 腕が確かで、律儀で、正直なマルチンには靴作りをする仕事が絶えたことはありませんでした。しかし歳をとるにつれ自分の魂の問題に直面していきます。家族には先立たれ、一人ぼっち、天涯孤独のマルチンは巡礼中の老人にこのように言います。

生きていくのはもうこりごりだ。ただもう死にたい。このことを神にお願いしたいよ。わしは今じゃ希望のない人間になってしまったよ。

 このあとの老人とのやり取りのなかでマルチンはいのちを与えてくださった神のために生きることを教えられます。それは具体的には主イエスにならって生きるということでありました。それ以来彼は聖書をむさぼるように読みます。主イエスの「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から、取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:30〜31)という言葉に出合います。

 そして眠りについた夢の中で「マルチン、マルチンよ、明日通りを見ていなさい。わたしがやってきますから」という声を聴きました。翌日、普段と同じように仕事をしていたマルチンは、主イエスがいつお越しになるのかわかりませんでしたので落ち着きがなかったのです。窓の外を見ると年老いたステファノじいさんが外で雪かきをしていました。体が弱って雪かきなど見るからに無理に見えるステファノじいさんをマルチンは家に迎え入れ、お茶を振舞います。それからどのくらい時間が経ったでしょうか、マルチンは飲まず食わずの若い母親を赤子とともに迎え入れ、スープをご馳走します。また、おばあさんからリンゴを盗もうとした少年を警官との間に入ってとりなそうとします。そんなこんなであたふたした彼の一日でしたが、結局一日中待っても声の主は現れませんでした。

 しかし彼が経験したすべての事柄の中にキリストはおられたのです。ステファノじいさんの顔をしたキリストが、若い母親の姿をしたキリストが、またおばあさんと少年の二人も、「あれはわたしだったんだよ」というキリストのみ姿に触れるのです。そしてその夜読んだ聖句は今日私たちに届けられた主イエスのみ言葉です。35節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。そして40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言う主イエスのみ言葉を読みます。

 今日の聖書の箇所は「目を覚ましていなさい」と私たちに注意を喚起するように主イエスが教えてくださいました。このみ言葉はアドヴェントの前後にも聴きました。「十人のおとめの譬え」やマルコ13章後半に記された終末についての教えなどです。

 そして今日の聖書の箇所は主イエスの最後の説教となったもので、この次の26章からは受難物語に入っていきます。この主イエスの最後の説教はすなわち「最後の審判」の教えです。この世の終わり、最後の審判の時には神によってつくられたすべてのものが神のもとに集められて、いよいよ神の国が完成するのです。

 そして終わりの日にキリストに祝福を受けるのは弱い人や小さき人に手を差し伸べて助けた人たちです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」35〜36節)。

 でもこの人たちはまったくキリストにそのようにしたことを身に憶えていないのです。しかしキリストは続けます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」40節)。この人たちはまさか、自分たちが助けた弱く苦しむ人々がキリストだとは思ってもみなかったのです。この人たちは決して終わりの日に祝福を受けたいから、裁きをおそれていたから、弱く苦しむ人に手を差し伸べたのではないのです。

 もしそうであるならば、そんなうわべだけのパフォーマンスは自己満足のためであり、神はちゃんとその嘘だらけの行動を見抜かれるでしょう。自分たちの目の当たりにする人たちが飢えていて、のどが渇いていて、今夜の宿がなく、着るものが無く、病で臥せていて、牢屋で孤独にしていた人たちを放っておけなかったし、見過ごすわけには行かなかったのです。苦しんでいる人、悲しんでいる人、病んでいる人の痛々しい気持ちを自分の気持ちとして行動しただけのことでした。これは立派なことではありません。「当たり前」のことなのです。

 これはイエス・キリストが私たちに示された生き方でもあります。主イエスは一生涯、苦しむ人と共に歩まれました。「小さい者のなかにキリストはいる」。私たち一人ひとりが今日この主イエスの言葉を投げかけられています。私たちにとっての小さい者とは誰のことでしょうか。

 「最も小さい者のなかにキリストはいる」。主イエスの生涯を顧みる時、この言葉はよく理解できるのではないでしょうか。すべて他人の幸せのために尽くすことを求める言葉です。また主ご自身がそうなさったのです。主は私たちに仕える姿を示してくださって、私たちに人に仕えることを教えておられます。

 昨年、中国の作家である方方(ファンファン)さんという方がお書きになった「武漢日記」というオンライン上で発表された日記が話題になりました。これはロックダウン中の人々の生活を描いたもので、すでに日本でも出版されています(『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』河出書房新社)。この中で方方さんは「一つの国家が文明的かどうかを計る尺度は、高層ビルが多いとか、車が速いとか、強大な武器や軍隊を持つとか、発達した科学技術、優れた芸術、派手な会議や光り輝く花火や、全世界を豪遊し、モノを買いあさる観光客が多いかどうかではない。尺度はたった一つ。それは、その国の弱者に対する態度なのです」と記されています。『武漢日記』は中国では事実上発禁となっているようですが、私たちにとっての「小さな人々」とは、誰のことを言う家といえば、それはまずこの「私」であるということ、そしてこの社会の中で「弱者」とされている人々のことではないかと思うのです。

 主イエスは言われました。愛よりも強いものは他に無い、と。主イエスが十字架へと歩み、その道行きを支えたのもこの愛です。人間に対する限りない主イエスの愛、もしくは神が主イエスに先立って愛をもって導いていたのでしょう。そしてこの愛は私たちひとりひとりにも注がれているのです。

 私たちはこの2021年、主の愛を携えて、最も近くで、最も小さくされている人のもとに出かけていきましょう。今、この時私たちは神の国の完成に向かって歩んでいます。キリストが再び地上に来られるその時、私たちは互いに愛し合うことで結ばれ、本当の平和が訪れます。私たちは神の国の一員となるように、毎日の生活の中で小さい者へと愛を行うように招かれています。


 
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