2020.12.24

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「だから今日、希望がある」

中村吉基

ヨハネの手紙一 4章9〜12節

 

 皆さん、2020年のクリスマスおめでとうございます。今年2020年は私たちの記憶に永く留められることでしょう。新型コロナウイルスの流行によって、世界の歩みが停止したり、見直されたり、変更を余儀なくされたりしたこの年を私たちは忘れることがないでしょう。病によって、また生活の糧を得ることができない中で多くの人がいのちを失いました。その一つ一つの〈いのち〉を憶えながら今夜、クリスマスを祝いたいのです。クリスマスは明るく、平和で、そして喜びの中で祝いたい思いもあることでしょう。しかしクリスマスは世界の〈闇〉を見つめる時でもあります。闇を知ることがなければ、光として来られた神の御子イエス・キリストの使命を理解することができないのです。

 ある人々はいいました。「神なんていない」「神がいたならばわれわれを助けてくれるはずではないか!」。先ほど共に聴きましたヨハネの第1の手紙4章9節には「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と力強く宣言されています。この手紙が書かれた時代、イエスの時代からおおよそ30年から60年後のことと考えられていますが、すでに「イエスはキリストではない」「イエスなどはいなかった」と主張していた人々がおりました。この人たちの主張は神が私たちの世界に介入されて、その愛のしるしとして主イエスをお送りくださったことに真っ向から否定するものでした。ですから福音書に証しされている主イエスの物語はすべて作り話だという有り様でした。

 この手紙の最初にヨハネはこのように記しています。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言について。
1:1

 ヨハネは主イエスの声を聴いておりました。目で見てもおりました。手で触ったこと、ここには「よく見て」という言葉が記されてあります。凝視したのです。じっと見たのです。ヨハネはこの世界に神の子主イエスが確かに「人間」として来てくださったことを高らかに宣言するのです。

 ヨハネは耳で聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えると記しています。これはすなわち、簡単に言うならば、皆さんお一人お一人にイエスの姿が見えていますか? イエスの声が聞こえますか? イエスに触れることができますか? と尋ねているのです。もし私たちがここに証言されているように「神がわたしたちを愛して……」ということを信じているならば、私たちは毎日神に愛されている実感を持って過ごしているはずなのです。

 2000年前、神の愛の実現として私たちの世界に主イエスが来られました。人は境界線を作るのが好きです。当時の世界も、民衆と権力者、庶民とエリート層など、さまざまな人と人との間の境界線や壁がつくられていました。主イエスこそ、この人間が作る境界線や壁を壊すことをなさいました。すなわち神の愛は人間が作る見えない壁を壊していくのです。ある時、主イエスは徴税人や、売春婦や、「罪人」と呼ばれる人びとと共に食事をしました。言うならば同じ釜の飯を食べました。重い皮膚病を患っている人、長血の女性、「不浄」だとされている人に、主イエスの側から近づいてきて触れてくださいました。サマリア人をはじめ社会から「のけ者」にされた人びとと言葉を交わしました。これはすべて神が人間の作った愚かな境界線を打ち壊したことにほかなりません。女性と男性の、地方の人と都会の人、病の人も健康な人も、貧しい人も豊かな人も、神は主イエスというご自身の愛の分身を用いて、ことごとく人間社会の醜い境界線を壊していったのです。かつて歴史の中でこんなことはありませんでした。神の愛というのは、私たちが見たこともない、聞いたこともない、触れたこともない圧倒的な大きな力を持った、経験したことがないものなのです。

 今夜このメッセージの前にアルゼンチンで創られた「だから今日、希望がある」という賛美歌を共に聴きました。アルゼンチンでは1976年から1983年まで軍事独裁政権が続きました。この間、子どもたちが相次いで失踪し行方不明となったそうです。1979年に作られたこの賛美歌は、イエス・キリストの生涯を見つめる時に、絶望のただ中に希望があるということをタンゴのメロディで力強く歌われているのです。首都ブエノスアイレスにある広場では、母親たちの団体が、1977年から今日に至るまで、失踪した自分たちの子らを返してほしいと大統領府の前で行進しているのだそうです。

 数年前まで世田谷の教会でお働きになり、現在は鹿児島の教会で牧師を務めておられる松本敏之先生という方がおられますが、約7年間、ブラジルで宣教師として働かれました。先生はサンパウロにある「路上生活者のためのコミュニティ」に足繁く通い、困窮に苦しむ人たちの姿に触れられました。そして、このコミュニティのクリスマスの祝いでいつも歌われていたこの歌を日本に紹介されたのです。

主が貧しい馬小屋で お生まれになられたから
この世界のただ中で 栄光示されたから
主が暗い夜を照らし 沈黙破られたから
固い心解き放ち 愛の種まかれたから

だから今日、希望がある
だから恐れずに生きる
貧しい者も 未来を信じて 歩み始める

 この賛美歌は「解放の神学」と呼ばれる運動の中で生まれた作品で、多くの人々が貧しさに耐え、抑圧されながらも、家畜小屋に生まれ、そして十字架に付けられ殺された主イエスが共にいてくださることを信じ、明日に希望をつなげて生きていこう、という民衆の叫びなのです。私はこの2020年のクリスマス、私たちには「希望」があるということをこの賛美歌を通して皆さん再確認したいと思ったのです。旧約聖書のエレミヤ書31章16〜17節にはこのように記されています。

「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。…あなたの未来には希望があると、主は言われる」。

 今年は「夜明けの来ない夜はない」という言葉がよく聞かれました。夜の間も、闇の中にも、今ここに神がおられないと思うようなときにも、神は静かに、ずっと私たちに寄り添って傍らに立ってくださっている……それに私たちが気づくのがクリスマスなのです。さあ、ここから出かけていきましょう。私たちは嘆いて、悲しむためにクリスマスを祝っているのではありません。希望に満ち、再び立ち上がるために闇から光へと導かれて行きましょう。


 
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