2020.11.22

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「思い煩いからの解放」(山上の垂訓講解説教第12回)

陶山義雄

ヨブ記 12:1〜13マタイによる福音書 6:19〜34

 

 山上の垂訓・講解説教も12回目を迎えました。マタイ福音書の5章から7章にわたる山上の説教は、これより第4の区分に入ります。第1区分が全ての人を対象にして、この説教へ招き入れる「幸いなるかな」で始まる呼びかけでした。第2区分は、イエスの教えに聞き従って生きる者たちの特質に触れて、彼らを「地の塩、世の光」であると語っています。第3区分では、イエスの言葉と教えを、ユダヤ教と比較して、イエスの言葉は掟を廃棄するのではなくて、イエスとキリスト教の何処が優れているのかを伝えています。そして、本日より第4部として、イエスに従う者の守るべき生き方、云わば、キリスト教倫理を説き起こしています。つまり、マタイ福音書記者が山上の説教の中心に据えて展開するイエスの(マタイとその教会にとって)在るべき生き方を、これより伺うことになります。

 本日のテキストは6章17節から34節までを一纏めとして取り上げさせて頂きましたが、聖書をご覧になってお分りの通り、新共同訳聖書には見出しがあって、説教題に関わる箇所は6章25節から34節までの所で、見出しに「思い悩むな」(ルカ12:22〜34)と付けられている箇所だけでも良かった訳です。しかし、マタイ福音書記者の意図からすると、これでは満足して頂けないことになります。先ほどご一緒に17節以下から目を通してお気付きになったと思いますが、25節以下に繰り広げられている「思い悩むな」の前には、「天に宝を積みなさい」(ルカ12:33〜34)と、「体のともし火は目」(ルカ11:34〜36)、それに「神と富」(ルカ16:13)、以上3つのそれぞれ異なった教えが載せられています。ルカ福音書のカッコで明示されている同類の教えをご覧になるとお分りの通り、マタイ福音書の物語とは異なる位置におかれています。「思い悩むな」はルカ福音書では、「天に宝を積む」の前に置かれています。これら1つ1つを講壇から個別に週を改めて取り上げて説教することも出来るのですが、マタイ福音書記者の意図からすると、本意ではないように見受けます。なぜならば、これらを纏めて1つのメッセージとして山上の垂訓の第4部でキリスト教倫理であり、教会人が守るべき生き方の中心に、これら全体を置いているからです。

 第4部として纏めたイエスの言葉が目指す方向は、7章12節にあります。現在、私達が黄金律と呼んでいる7章12節に向かって、イエスが折々にお話になった言葉を繋ぎながら「至高の倫理」に私達を招き入れようとしています。しかし、その前段としてマタイ記者は教会には欠かすことの出来ない、この世との関わり、取り分け、金銭や富、経済的な問題が得てして、求道の道に立ちはだかる障害であると考えて、第4部の冒頭、すなわち、6章19節にこれを掲げています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。」

 新共同訳では、一つ大切な言葉が訳されておりません。それは、「自分、汝等のために(υμίν)」と云う一語が翻訳されていないのです。マタイ記者の意図からすれば、それでも宜しいかもしれませんが、もし、この言葉がイエスご自身から語られたのであれば、大切なこの一語は欠かせない内容を持っています。それは黄金律とも繋がる内容です。自分のためばかりでなく、他者のために宝を積むことが「天に宝を積む」ことに繋がるからです。

 しかし、マタイの意図では更に踏み込んで、信徒に「富、宝」の放棄を求めています。それが、24節です。「天に積む宝・富」と「地上に積む宝・富」を2人の主人に兼ね仕える奴隷を想定して、この奴隷は同時に2人の主人(天と地の宝)に兼ね仕えることは出来ない、と云っています。死海のほとりで、世を捨てて修道院的生活を営んでいたクムラン教団の人々や、中世ローマ・カトリック教会の修道院を想定しているような勧めをマタイ記者は、ここで提起しています。しかし、本日のテキストである「思い煩いからの解放」は、この後、ご一緒に検証して分かる通り、所有の放棄や、世捨て人になるために語られていたのでないことは明らかです。ルカ福音書記者はマタイと同じ伝承(Q資料)を受け継ぎながら、「自分のために宝を積んではならない」と云う言葉を適切に解説しています:「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:32

 「体のともし火」(マタイ6:22,23)の教えは、マタイ記者がここに収めているのですが、前後関係からも掛け離れており、これだけで、一つのメッセージになっていることが分かります。イエスが何時、何処で、どんな場面でお話になったのか、もし、そうした状況設定が報告されていたらば、更に生きた言葉になっていた筈でしょう。何時の時代も明るい心から、輝くほど澄んだ目、明るい人柄について、私達は目を見れば分かりますし、そのような人でありたいと願っています。主・イエスもそのことを指して私達を導いておられるに違いありません。でも、マタイ記者がこの文脈に「澄んだ目」の話を置くと、まるで違った内容になってしまいます。それは、富への執着を捨てた人と、そうでない人の目は違うのだ、と云う教えに転じているからです。

 本日のテキストは「所有の放棄」を勧めるマタイ記者の文脈におかれておりますが、その内容は「澄んだ目」の話と同じように、マタイの枠を超え出て、私達の生き方全体を包み込んでいる、イエスの生き方の真髄が現れている話である事が良く分かります。ならば、この話には「食べること、飲むこと、着ること」と並んで、私達が毎日の生活に欠かせない命と生き方が語られているからです。しかも、マタイ記者のようにこれらを地上に宝を積む営みとして、放棄することの引き換えに、天から恵みとして、これらのものは一切、加えて与えられる、と云いながら、マタイ記者が意図する構図に収めきれない大切な生き方が示されているからです。

 私達が生命を維持する上で、確かに衣食住は不可欠な要素ですが、それと同時に、もしくは、それにも増して生命維持に不可欠な「基本的信頼」を維持する事が空の鳥、野の花を介して語られているからです。空の鳥、野の花を見ると、これらの生き物は創造主から頂いた条件を精一杯働かせながら生きています。先ほど、ヨブ記12章を読んだ中にありましたが、知恵の人・ヨブは因果応報の教えを説く友人からの批判にこう答えています:「略奪者の天幕は栄え、神を怒らせる者、神さえ支配しようとする者は安泰だ。(しかし)獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう。大地に問いかけてみよ。教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らは皆、知っている。主の御手が全てを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も御手の内にあることを。」

 ルドルフ・ブルトマン(1884〜1976)という新約聖書学者は『イエス』という本を著しました。(八木誠一さんが訳しておられます。)ブルトマンはこの本の中で、この個所を評して、「子供らしい摂理信仰で、自然と世界についての素朴な楽天主義が語られている」、と述べています。

“kindlichen Vorsehungs-Glauben und einen naiven Optimismus der Natur-und Welt-Betrachtung enthalten.”Jesus , p.135

 「子供らしい摂理信仰」、また、「自然と世界についての素朴な楽天主義」は決して大人があなどるようなものではありません。今の時代にどれほど大切な生き方ではないでしょうか。「乳飲み子のように全てを他者に委ねた生き方」こそ、思い煩いから私たちを開放してくれるのです。乳飲み子が母親に寄り添う、あの姿に思い煩いがあるでしょうか。アイデンテイテイという言葉を心理学に定着させた、エリック・エリックソン(1902〜1994)は母親とその胸に抱かれている乳飲み子との間には基本的信頼の関係が形造られていく、と云っています(『アイデンテイテイ〜青年と危機』)。

 また、高橋和巳(昭和9年〜昭和46年、1971年)は『孤立無援の思想』と題したエッセイ集に「わが宗教観」を載せておりますが、その中で「わが愛する者に幸あれ、と祈るのは常に母親である。献身や愛など、宗教的感情はつきつめて行くと母の子供に対する関係の在り方に帰結する。抽象的な教義が先にあって、人は人を愛するのではなく、誰が教えずとも母は子を慈しむような関係が先にあって、さまざまの世の汚濁からの救いとして愛や慈悲の観念が生まれる。有能だから愛するのでもなく、報酬を欲して世話をするのでもない存在そのものを尊重する母の愛がおそらく、すべての宗教的感情の原型なのではなかろうか。」そのように高橋和巳は述べています。

 エリックソンは乳飲み子に焦点をあわせて、子供にとって母親からうける愛情が、これからの人生で荒波を乗り越える力として基本的信頼の関係が生み出されていく所を見ています。それに対して高橋和巳は母親の側に目を向けて、母親が愛する者に捧げる献身的愛に注目しています。愛を無条件に受ける側にも、また無条件に愛を注ぎかける側にも、宗教性はこの応答の関係の中で育って行くものであります。問題は「子供らしい、素朴な基本的信頼の関係」が人間の成長過程の中で何時まで持ち続けることが出来るのか、と云うことではないでしょうか。エリックソンは、人が幼児期の初めに与えられた基本的信頼の関係が終生、人を生かすものであることを強調しながらも、大人になるにつれて、自我の目覚めや、自分の意思が激しく周囲と衝突して行く中で、基本的信頼が後退したり、無視されたり、捨てられたりして、アイデンテイテイ・クライシス(つまり、自分とは何者かが分からなくなってしまう状態)に陥ってしまう、と指摘しています。

 これを聖書の言葉に置き換えるならば、私たちが、食べること、飲むこと、着ること、住むことなどに主な関心を向け、現状に満足出来ないで、さらに上を目指して働いているうちに、思い煩いに取り付かれて、命のこと、今ある恵みに感謝する、基本的信頼の関係を見失うような状態に陥るのです。どうしたら思い煩いから解き放たれるのでしょうか。事柄は単純明解です。それは既に十分に頂いている基本的信頼に私たちが立ち返ることではあります。既に親はなく、幼児期を過ぎた大人でも、母を介して広く無限に高大なもの、母をも与え、母子共に包み込んで愛しておられる天の神様への信頼を寄せるだけで良いのです。エリックソンは乳幼児期に母との関係で頂いた基本的信頼の中にいる自己について、I am what I am given. つまり、私は与えられた存在としてのアイデンテイテイを自覚するのです。

 それに対してイエスが私たちに語っている天の父なる神との信頼関係をエリックソンの言葉におきかえれば、I am what I am. (私は私である:私は私以外の何者でもない)と言うことになるでしょう。私は天の父との関係を通して私となり、他の全ての人との関係も、身内や血縁、母子をこえて、神との基本的関係のなかでアイデンテイテイを回復するのです。エリックソンは心理学者として神を持ち出してはいないのですが、従って、彼は基本的信頼の中にいる自己が I am what I was given. であるのに対してI am what I am. は先在の自己との関係である、と云っているのです。

 しかし、私はマタイ6章25節以下の御言葉が、エリックソンを最も相応しく補完しているように思います。先在の自己とは何でしょうか。母も、幼児をも包む自己を超えでた自己、それは聖書が天の父と呼んでいる方に適合します。もとより私たちは乳飲み子に帰ることは出来ません。食べること、着ること、住むところを、より良く、また快適に整える働きは毎日続けるに違いありません。しかし思い煩うことから自由であるべき道を聖書は私たちに伝えています。それは、日毎の働きの土台に、幼な子のように全てを天の神に委ねる基本的信頼をもち続けることであります。

 私達は今週も、より良く食べること、着ること、住むことのためにあくせくとは働かざるを得ない大人、成人です。そう云う営みの根底に基本的信頼を保ち続けるには、イエスが譬話で述べておられる、農夫のような、天の父への信頼の関係が基本的に必要であります。数ある農夫の譬話のなかで、結びとして、マルコ福音書4章26節以下の(68頁)、「自ずと成長する植物の譬」に注目したいと思います。良い収穫を目ざして一所懸命働く農夫を想定してイエスはこう言っています。「神の国は次のようなものである。人が土まいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず芽、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 自ら働く務めと、その根底で天の父にお任せする信頼の関係が実に良く、この物語には織り込まれています。また、ビートルスの一員であったポール・マッカートニーの造った Let it be と言う歌が今もなお親しまれている理由も良くわかります。

「When I find myself in time of trouble, mother Mary comes up to me, Speaking words of wisdom, Let it be.」

「私が困っているような時、メアリー母さんが現われて、賢者の言葉を伝えてくれる:『主にお任せしなさい。』」

 賢者の言葉こそ今日のテキストにある通りです。

 マタイ福音書記者が今日のテキストの締めくくりとして掲げた34節:「明日は明日に任せて、今日、この今の時を、空の鳥や野の花のように、精一杯働かせて生きればそれで良い。一日の苦労(原意は「悪しき事」:κάκια )はその日で十分である。」と云う言葉も“Let it be” と同じ主旨なので、ここでは福音書記者の纏めが際立っています。(ルカと共通するQ資料には無いので同福音書には欠落している(ルカ12:31)。また、東洋英和女子大生が例年、掲げていた3大愛唱聖句の1つがマタイ6:34である。他はコリント一 13:13コリント一 10:13)。

 安息日は私たちにとって、過ぎた1週間を一所懸命働いたことと、その中で、私たちを支えて下さった天の父に感謝を捧げると共に、主なる神への信頼を新たにして主が備えて下さった安息に与る日であります。自分の物差しで収穫の良し悪しを量るのではなく、神への基本的信頼の中で捧げたものは全て、夫々が達し得たところを喜び、感謝することが出来ることを共に喜ぶ者でありたいと思います。収穫感謝は毎日、床に就く前に、毎週集う聖日礼拝で、そして締めくくりとして1年を振り返って本日こうして感謝の礼拝を捧げています。

 私たちはこれからも思い煩う生活に陥ることがあると思います。しかし、そのような時に、今日いただいた御言葉に立ち返り、究極的には全てを主に委ねて生きることをするならば、思い煩いから解き放たれて苦しむことをも喜びとすることが許されます。丁度、パウロがローマ書5章で述べているように:「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(練られた品性)を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」私たちは信仰によって正しくされるからです。

祈り:

 全てを造り、これを治めておられる天の神様
 多難な出来事の中にも、この1年、あなたに守られ、支えられて過ごすことが出来ましたこと、心より感謝致します。あなたにある平安を頂いて、労し、働いてきた実りを、この礼拝にあって、あなたに捧げることの出来ます幸いを心より感謝いたします。どうか、私達を引き続きあなたとの親しい信頼の関係に留めて下さる様,節に祈ります。この世の貧しさにまで降りて下さった主に倣って共に分かち合う喜びに与らせてください。

 


 
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