明治期の日本のキリスト教の指導者であり、教育者でもあった内村鑑三の娘ルツ子は19才で夭折しました。その葬儀の時、内村が残した言葉があります。その時彼は「これで終わりだ」「これでお別れだ」とは言いませんでした。「これはルツ子の葬儀ではない。ルツ子は天に嫁入りしたのであり、今日はルツ子の結婚式である。」と言ったのです。そして、墓地での埋葬の時、内村は、土を握りしめた手を高く挙げて、「ルツ子さん、万歳。」と 叫びました。
何故、内村は、娘の葬儀に、これは葬儀ではない、万歳だ、と言ったのでしょうか。彼は、 「死は終わりではない、死は永遠の別れではない」と知っていたからです。内村が持っていた信仰は、「からだの復活、そして永遠のいのちを信じる」というところにあります。
今日私たちは召天者記念礼拝を捧げています。日本基督教団では11月の第1日曜日に「聖徒の日」として守られています。カトリックや聖公会、ルーテル教会などでは11月2日が「死者の日」、その前の1日が「万聖節」と言って「諸聖人の日」。そしてその前夜祭が主にアメリカで盛んになったハロウイーンなのです。私たちの教会では「召天者記念礼拝」として今日の礼拝を捧げていますが、教団がつけている名称は「永眠者記念日」という言葉です。私はこの呼び方には若干の違和感を覚えます。なぜなら私たちキリスト者は「身体の復活」を信じていますので永遠に眠るということはないからです。
さきほど共に聴きました聖書の言葉、新約聖書の中ではもっともよく知られた言葉といわれています。
聖書のすべてがこの一節に凝縮されているともいわれている言葉です。神はかけがえのない独り子のいのちを差し出して、人間に永遠のいのちを与えてくださいました。これこそ神の親心です。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」とも記されています。私たちがイエス・キリストを心に信じるだけで、既に「永遠のいのち」を得ているのです。
主イエスはこの素晴らしいメッセージをファリサイ派に属するニコデモにお話しになられました。ニコデモは「ユダヤ人の議員」であり、「イスラエルの教師」とも紹介されていますので、たいへんファリサイ派の人々から人望のあった人なのでしょう。この議員というのはユダヤ最高法院の議員ということです。ちなみにニコデモという名の由来は「勝利者」という意味で、日本で言えば「勝さん」とか「勝利さん」といえるでしょうか。彼はエリート中のエリートでした。その彼がある夜主イエスに会いに来ました。しかし、「優秀」なニコデモも主イエスの言われていることをきちんと理解することができませんでした。それはニコデモの頭には「崇高な神は、私たちよりはるか高いところにおられて、私たちのために独り子を差し出されたりはしないはずだ」という先入観がこびりついていました。
私たちにも経験があると思いますが、強い思い込みや先入観があると新しく知ったことや聞いたことがなかなか自分の中に入ってきません。定着しないのです。それに加えてニコデモは「律法さえきちんと守ってさえすれば、神は私を救われる」と信じ込んでいました。ですから主イエスが福音を彼の目の前で宣言されても、彼は主イエスの福音を受け容れようとはしなかったのです。
夜になるのを待って彼は主イエスのもとへと訪ねてきました。2節に「ある夜、イエスのもとへ来て」とあります。ユダヤであってもやはり人を訪ねるのは日中のことだったでしょう。けれども、「ある夜」とあります。すぐに読み飛ばしてしまうような言葉ですが、福音書の記者は、その出来事が夜であったことを特記するのです。なぜ彼は夜にやってきたのでしょうか。
彼がファリサイ派と言えば、主イエスとは敵対していた関係です。同じヨハネによる福音書の12章42節にはこう記されています。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」。議員の身分で、ファリサイ派の彼が公に主イエスのもとに訪れたならば、もうそれは一大事になることは彼の目にも見えていたことでしょう。ですからそのために「ある夜」、こっそりと彼は主イエスのもとへとやってきたのです。
もう一度2節をごらんください。
ニコデモは主イエスのことを「知っています」と言いました。きっと主イエスのことをどこかで知りえていたのでしょう。人々にまぎれてどこかで主イエスが奇跡を行ったことを知り、その言動に深く興味を持っていたのです。彼は主イエスに「ラビ」と呼びかけています。これは主イエスを「救い主・メシア」と見ているのではありません。自分と同じ「イスラエルの教師」として見ています。しかし、力のある宗教指導者と見ています。そしてニコデモは主イエスの行った奇跡、ここでは「しるし」と表現されています。この奇跡を通して「神のもとから」主イエスが来られたと彼は言っているのです。しかしそれに対する主イエスの答えは彼の予想を裏切るものでありました。
主イエスは奇跡を通して神を見る、奇跡によって人間が救われるのではなくて、「神の国を見る」ということこそが最も大事なことなのであると言われました。この世界は人間の罪がはびこり、不正や暴力などその一切が神の正義、愛の支配に変わることが「神の国を見る」と言うことです。人間はこの世のそうしたドロドロとしたものにしがみついて生きることが本当の生き方なのではなくて、すべてを神のご支配に委ねることが「新たに生まれ」ると言うことであり、神の国の一員として生きるということをニコデモに教えたのでした。
しかし、ニコデモは全く主イエスの言っていることが理解できませんでした。彼は奇妙なことを言い始めました。
彼は「新たに生まれなければ・・・」と主イエスが言ったことを、もう一度生まれた時から人生をやり直すと言うふうに捉えました。しかし主イエスはそのようには言っていないのです。「もう一度母親の胎内に入る」などということが不可能なことは誰だってわかるはずです。ある聖書はここを「人は上から生まれなければ」と訳しています。「上から」つまり「天の神から」生まれるということを意味しています。肉体的に人生をやり直すのではなく、霊的に神と結ばれることによって新たに生まれ変わる、ということを主イエスは言っているのです。そして5節で「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。「はっきり言っておく(アーメン)」は大切なことを告げ知らせるときに主イエスが使われた言葉です。夜、こっそりとやってくるのではなく(闇の中でなく)、日の光の照り輝くところで、「水と霊」(洗礼)によって信仰を堂々と言い表すことによって「新たに生まれる」のだと主イエスは告げられました。
そして主イエスはこのようにも言っておられます。14節からです。
「人の子も上げられねばならない」というのは主イエスが十字架にお架かりになることによって私たちの罪を担い、神と人間との絆を保ったということです。罪というものは神と人間の関係を破壊してしまうだけではなく、人と人との関係も壊す力を持っています。イエスが人間の罪の苦しみをご自身の苦しみとして引き受けられ、それを取り去ってくださいました。主イエスを信じる者が「永遠の命」を得ると言うことです。
牧師は火葬の折にお祈りをしますが、途中でこのように祈ります。「神さま。やがて神の国が完成する日に、朽ちるべき私たちの身体は朽ちることのない栄光の体に変えられるという約束を覚えて感謝いたします。どうかこの信仰に堅く立ち、希望を持って◯◯さんとの再会を待ち望むことが出来ますように」。復活を信じるとはこの信仰です。本来焼かれて、朽ちて消え失せるはずの私たちの身体が神の力によって「朽ちることのない栄光の体」に変えられることを信じるのです。このことをキリスト教会は2000年告白してきました。
主イエスは十字架につかれ、この世を去られました。しかしそれは終わりではありませんでした。3日目に甦って永遠のいのちがあることを示されたのです。キリストが復活してくださいました。私たちも永遠の眠りにはつかなくて良いのです。永遠のいのちの喜びに生きることを私たちは信じるのです。