2020.09.27

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「主と同じかたちに」

廣石望

出エジプト記34:29〜35コリントの信徒への手紙二 3:4〜18

I

 新型コロナウィルスが蔓延して以降、「新しい生活様式」という言葉が使われるようになりました。現在、世界中の感染者は約3,200万人で、なお増加中、死者は約99万人に達しました。日本の感染者は約8万人で、今は「低どまり」状態にあり、死者は約1,500人だそうです。少なくとも感染者数は、じっさいにはもっと多いでしょう。マスク着用とソーシャルディスタンスに嫌気がさして、「新しい生活様式」を公然と無視する人々もいます。しかし、少なくともワクチンなり特効薬なりが行き渡るまでは、何もなかったかのように以前の生活に戻ることはしないでおくのが、どうやら賢明そうです。

 この間の生活の変化を通して、以前から分かっていたのに意識の片隅に追いやってきたいくつかのことが、否応なしに見えてきました。

 例えば毎日何時間も電車に乗るという猛烈なモビリティーの中で私たちは暮らしてきましたが、この半年間、私は自宅とその周辺に留まり、片付けや読書などをして暮らしました。考えてみれば、首都圏への一極集中がもたらす弊害は以前から言われきたことです。また、ほとんど自宅にいたおかげで昼間は庭や散歩道の草花を眺め、夜には星空を仰ぎました。従来の猛烈な働き方は「使い捨て」型の消費経済と表裏一体でしたが、そうした成長モデルに限界があることは、すでに久しく指摘されています。さらにテレワークの普及や授業の全面オンライン化は、無限に分散していた公私の社会関係を見直すきっかけになりました。たいへん「生きづらい」と言われるこの社会で自分が孤立しない、また大切な人を孤立させないためには、いったいどうすればよいでしょうか。

 一言でいえば、従来のアクティヴィティーを停止していったん立ち止まり、根本的な方向性をよく考えてみることが大切です。そして礼拝は、もともとそのための場所です。

 今朝は、パウロのテキストを手がかりに、方向定位の質的な転換つまり新しい目付けを得ることと、その方向に向けた段階的な歩みについてごいっしょに考えてみましょう。

II

 パウロは、キリストを通して与えられた状態を「新しい契約」と呼び、それ以前の神や世界の捉え方を「古い契約」と呼んで、両者を質的に区別します。

 私たちは通常「古い」ものに小さな変化を加えることで、少しだけ「新しい」ものを作りますが、ここで「新しい契約」と呼ばれるものは、そうではありません。むしろ「新しい」ものが到来したために、従来のものが「古い」ものであることが分かってしまったという関係にあります。新しいものが、古いものを古くするのです。

 新しいものとは、パウロが「私たちが自ら、あたかも自力で何らかの判断を下す能力があるのではなく、私たちの能力は神から(来る)」(5節)と言うように、人でなく神がもたらした現実です。

 古い契約と新しい契約は、はっきり質的に区別されます。すなわち「殺す文字」の奉仕vs「命を創造する霊」の奉仕(6節)、「死」の奉仕vs「霊」の奉仕(7-8節)、「断罪」の奉仕vs「義」の奉仕(9節)、また「無効化されるもの」vs「とどまるもの」(11節――新共同訳「消え去るべきもの」と「永続するもの」)というぐあいに。両者は〈あれか/これか〉の対立的な関係にあります。  この旧新の区別は、ユダヤ教とキリスト教の区別とは違います。パウロはユダヤ教の枠内で、新しい差異の認識について語っています。またそれは、旧約聖書と新約聖書の対比でもありません。それは『聖書』全体の読み方に、また生の認識そのものに関わります。

 仮にキリスト教徒であっても、資本主義にありがちなように自らのアクティヴィティーや業績によって他者を圧倒したり、あるいは西欧中心主義や人種差別、あるいは女性蔑視に見られるように、自分勝手な価値基準によって他者を排除し、弱者を隅に押しやるなら、そこには「殺す文字(/死/断罪)の奉仕」が、つまり「古い契約」が作用しているでしょう――ただし「無効化される(べき)もの」として。

 逆に新しい契約は、「命を創造する(/霊/義)の奉仕」と言われます。命を創造するとは、神が私をいったん無に帰した上で、新しい人格として創ることです。その働きにある神が「霊」と呼ばれます。そして「義(正義)」とは、現代では万人にとっての条件上の平等、あるいは当事者集団の内部合意という意味に用いられますが、『聖書』では神とその民が結んだ契約共同体への信義あるふるまいを意味し、そこには寄留者や孤児や寡婦の保護が含まれます。またとりわけパウロにあっては、神なき者を相互の信頼にもとづいて「義」とする神の行為をさします――そして、これが「とどまるもの」です。

 ならば私たちもまた、「古い契約」から「新しい契約」へと質的に方向転換すること、つまり新しい目付けをえることが求められていると思います。

III

 その上で、たいへん興味深いのは、この質的な転換に、量的な比較ないし段階的な変化が伴っていることです。比較級の表現が、二つの契約をつないでいます。

石に刻印された文字による死の奉仕が栄光の内に生じたのであれば…、霊の奉仕は、むしろどれほど栄光の内にあることであろうか。(7-8節
断罪の奉仕に栄光が(ある)なら、義の奉仕はむしろますます栄光に横溢する(であろう)から。(9節
無効化されるものが栄光を介して(生じた)なら、留まるものはむしろますます栄光の内に(あるだろう)。(11節

 つまり両方に「栄光」があり、それでも「新しい契約」の栄光は「古い契約」をはるかに凌ぐというわけです。「超越する栄光」を備えている新しい契約に照らせば、古い契約は「栄光化されていない」(10節)、つまり古い契約はそれ自体からでなく、むしろ新しい契約の視点から〈栄光の点でより欠如した〉ものと認識されます。まるで、夜に試合が行われるプロ野球スタジアムのまばゆいカクテル光線も、燦然と輝く太陽が昇ってみればまるで色あせて見えるのと同様に。

IV

 この比較級を内容づけるものとして、出エジプト記34章から〈モーセの顔覆い〉のエピソードが独自の解釈とともに提示されます。

 もともとのストーリーでは、神と顔と顔を合わせて語るモーセの顔に神の輝きが移り、帰ってきたモーセの顔が照り輝くのを恐れる民に配慮して、モーセに「顔覆い」がなされました。しかしパウロは、それを「無効化される栄光」(7節)と形容します。なぜ、そんな奇妙な解釈をするのでしょう。それは、パウロが「主(キリスト)へと転じる度に、覆いは取り外される」(16節)ことをすでに経験ずみで、自分たちはもはや「覆いをとられた顔」(18節)の状態にあると自覚しているからです。そしてそこから逆推論し、モーセの顔覆いは、じっさいには「無効化されるものの終焉」をイスラエル人たちが見ないためであり、しかも「今日まで、モーセが朗読される度に、彼らの心の上に覆いが横たわっている」と言うのです(14節)。

 この事態を、パウロは神が引き起こしたと見ているかもしれません。「彼らの考えは頑なにされた」、そしてこの覆いは「キリストにあって無効化される」(14節)という二つの受動態の動作主が神である可能性があるからです(新共同訳は「彼らの心は鈍くなってしまいました」、「キリストにおいて取り除かれる」)。もしそう読んでよいなら、人が自力で新しい方向定位を獲得することはムリだ、という含意が感じられます――ちょうどコロナ禍の中にあって、他者の命を守ることを、私のさまざまな欲求充足に優先させることが、ときに極端に難しいように。

 しかし「主(キリスト)は霊であり、主の霊のあるところに自由が(ある)」(17節)。モーセ律法の遵守によって「神の民」への帰属の有無を決定するという「古い」契約からの自由は、あるいは自らの欲求充足を世界で最も重要なことと見なすことからの自由は、霊なるキリストという場にあって初めて可能になります。

V

 この自由をパウロは「希望」「大胆さ」と呼び、その中で私たちは変えられてゆきます。

私たちこそは皆、覆いをとられた顔に主の栄光を反射しつつ、その同じ姿へと変貌させられる、栄光から栄光へと――主の霊から(発しつつ)。(18節

 コロナウイルスの蔓延は私たちを狭いところに閉じ込め、私たちはマスクという顔覆いをつけて暮らしています。それでも私たちは、「こうでなければならない」という古い至上命令(殺す文字)から自由になって、人を新しく創る神の力が「霊」として働く栄光への変容プロセスの中にいます。復活のキリストと同じかたちになることが、私たちの変身の目標です。

 パウロには、そのとき私たちがキリストの「死」のかたちにも同形化されてゆくという趣旨の発言があります(フィリピ3:10-11)。二つを合わせ読むなら、復活のキリストへの同形化は、キリストの死への同形化と同時並行的に生じることになります。ならば私たちは、いま閉じ込められている仲間たちに、また大きな困難の中にある人々に向かって、大きく心を開きたいと願いします。


 
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