三浦綾子(1922〜99)さんの小説『氷点』では、幼い娘を殺した犯人の娘を引き取って育てる母親が登場人物となってストーリーが展開されて行きます。これは若い頃の三浦さんが病で臥していたころ、遠縁の幼い子どもと若い母親が殺されて、その痛みが〈汝の敵を愛せよ〉という聖書の言葉への取り組みになって小説が生み出されたといいます。この小説は三浦さんのデビュー作でもありますが、世に出された当初、「犯人の娘を引き取るなどあり得るか、何と無理な設定か」と三浦さんは非難されました。しかし、時を経て三浦さんはある牧師から津田彰(あや)さんという岡山に住む一人のキリスト者の話を知らされます。津田さんは自分の一人息子を殺した犯人の減刑運動をして、ついにその殺人犯を洗礼にまで導き、母子にも似た友情を持って交わっているということでした。
私たちはいつも「主の祈り」を祈るときに「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ります。今日の箇所はこの「ゆるす」ということは具体的にどういうことであるか教えてくれるたとえ話です。
ゆるすということは、常軌を逸した人間の行動でしょうか? 人間の罪による無数の犠牲者が世界に溢れ、ひとりひとりが受けた傷を大切に心に秘め、その痛手から立ち直ろうとしているこの社会にあって、ゆるしはまともな人間がすることではないように思えます。ですから、主の祈りの中でも先程挙げた箇所が、最も祈りにくい祈りだと多くの人からお聞きしたことがあります。私たちは、他の誰かをゆるすことについて語り始める前に、自分たちの罪のゆるしを願うように求められています。苦しみをもたらした他の人の過ちを思い出すのに先立って、私たちの大きな過ちを思いめぐらすように求められています。通常の主の祈りにあるように「赦しましたように赦してください」と祈るということは、自分が赦されるための条件があるということでしょうか。しかし、実際に聖書に出てくるさまざまな記事を読みますと、ある人が何か条件を満たしているから、ゆるされる資格を得たということではありませんでした。人間が愛する前に、すでに神が人間を愛してくださり、まず神の側から罪のゆるしの宣言をされたのです。
今日の箇所には「七」と言う数字が出てきます。ユダヤ世界では「完全なさま」を表す数字です。「七の七十倍」というのは490回という意味ではなくて、「無限に」ゆるしなさいといっているのです。1タラントンは当時の1日の日当(1デナリオン)約6000日分に相当するそうですから、約16年分、計り知れない金額です。ここでは家来の王(主君)に対しての負債は1万タラントンというとてつもない金額です。そして、この家来は100デナリオンを仲間に貸しておりましたが、自分はというと、この60万倍ものお金を主君から借りていたというわけです。主イエスはペトロに言いました。「無限にゆるしなさい」と。旧約聖書のレビ記などを読みますと、たくさんの規定が書かれているわけですが、「こういうときにはこのようにしなさい」というように、よく条件がつけられているものです。しかし今日の箇所にはそれがありません。主イエスによれば「条件なし」それが人間関係の基本をなすことなのでしょう。もう皆さんはおわかりであろうと思います。このたとえ話での主君は神様のことであり、家来は私たち人間を表しています。
23節以下では借金を免除してもらうことが人間の「罪のゆるし」になぞらえて描かれています。ゆるしを与えるのは神です。人間は罪によってまるで借金で首が回らないような状態になっていても、神はそこから救い出し、私たちを活かそうとなさいます。27節で主君が「憐れに思って」とあります。これは以前にもお話ししましたが、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語でそこで苦しんでいる人を見て「はらわたがよじれるような」思いがするという意味の言葉です。そこから転じて、人に「共感する」という言葉です。
私たちをゆるしてくださるのは神だということを再認識することは、自分たちが神に作られた側の立場にあることをわきまえ知らなければならないということを教えます。私たちは自分のいのちを生み出すことはできません。自分ひとりで、自分の人生を造り上げることもできません。
それでは貸している借金を気前よく帳消しにする人間になるとは、いったいどういうことなのでしょう? そして私たちには、だれかに貸してあったものを帳消しにするという、「無限にゆるす」という経験をしたことがあるでしょうか?
私たちは聖書に触れるときに、神がくださったゆるしの贈り物である主イエスを知ります。ぜひ心に留めておきたいことは、福音書の中で主イエスがどれほど多く人びとをゆるしておられるかということです。人びとが主イエスに癒されることを求めると、主はそれをゆるして迎え入れてくださいます。人びとがイエスの教えを説明してほしいと願えば、主イエスはわかりやすく教えるのです。「罪まで赦すこの人はいったい何者だろう」(ルカ7:49)、と人々は問いました。ゆるすことによって、私たちが神に、主イエスに頼りながら生きる存在であることをわきまえ、知るように教えられたのです。
神は、無限にゆるされるお方です。それは神が罪を甘く見過ごそうとされるからではありません。私たちの神は、私たち一人をも何とかして私たちを「仲間」にされようとするのです。
けれども人をゆるそうという思いは自然に出てこないのです。だから私たちは、「我らに罪を犯した者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と、毎日祈る事が必要でしょう。そして神はこの言葉を私たちが心から祈ることができるようになることを願っていることでしょう。
以前、教会「たより」にも書きましたが今年の2月の終わりに私はかけがえのない友を55歳という若さで天に送りました。2005年から私たちの日本キリスト教団がカナダ合同教会に遣わしていた木原葉子牧師です。女子学院、東京女子大に学び、当教会にもゆかりの深い方がおられると私は生前本人から聞いておりました。このあとに歌う『讃美歌21』444番の「気づかせてください」は木原牧師が作られた賛美歌です。1993年、木原牧師は日本聖書神学校に学んでいましたが、夏休みの神学校の交流プログラムの一環でフィリピンのシリマン大学に滞在しました。これは木原牧師が遺している言葉ですが、「実際にフィリピンの人に出会い、具体的状況の中で神学する神学生たちに接して、そして何よりも彼らのキリストにある兄弟姉妹という心からのもてなしを受けて、私は日本が、日本人がしてきたこと、していることを自分の罪責として負っていかなければと思い知らされたのでした。(略)私たちの罪の本質は、知らずに、気づかずに犯しているところにあり、他者との、隣人との破れはキリストが間に立って頂くことによってのみ修復されるという思いを強くしたのでした」。(『「讃美歌21」略解』より)
私たちにはまず神の「ゆるし」が与えられています。だから私たちも神にならって人をゆるすのです。私たちがゆるさないということがあれば、主イエスの模範に応えることにはならないのです。主イエスの行いを曇らせてしまうのです。私たちの周りを見るときにどうしても「ゆるせない」ことの多い現実にため息が出てくるような私たちです。それでも神は私たちをゆるし続けて、愛し続けてくださっています。この事実の中でいまこの時も主は「愛して、ゆるしなさい」と皆さんに語り続けておられます。