2020.08.09

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「安心しなさい」

中村吉基

列王記上19:9前半、11〜13前半マタイによる福音書14:22〜33

 今年の6月、北朝鮮に娘の横田めぐみさんを拉致された横田滋さんが87歳で天に召されました。皆さんも報道でご存知のことと思います。しかし、その報道に接して、横田さんがクリスチャンであったということを初めて知った方もおられたと思います。つい数日前に発売された週刊誌にはこのようなことが記されておりました。お連れ合いの早紀江さんのインタビュー記事です。

「私は、めぐみがいなくなった苦しみの中で、すべてを神様に委ねようと、ちょうどめぐみが20歳になった年、洗礼を受けました。けれどお父さんには信仰を強いることもありませんでした。お父さん自身、『神様がいたら、こんなひどいことは起こらないだろう』とひどく怒っていましたからね。でも入院の前年、お墓のことを話し合ったのをきっかけに、洗礼を授けていただきました。その後はやっぱり楽になったのでしょう。あるいは楽になりたかったのか、もう自分が力まなくても、神様に委ねればいいんだと。すると、お父さんは今まで見たこともなかったような、とても安らかな顔で毎日をすごせるようになりました」。(「週刊新潮」2020年8月13日・20日号)

 横田夫妻が「委ねる」ように洗礼をお受けになった………今日の福音の言葉はまさにこういう事を言っているのだと、私はこの記事を読みながら、私たちの信仰は主にまっすぐに「委ねる」ことなのだと思いました。そのとき、私たちは平和な気持ちにさせられるのです。

 しかし、私たちの人生は順風満帆なことだけではありません。私は今日の説教の準備をしている時に、私たちにはあまり馴染みがありませんが、聖歌に「人生の海の嵐に」というものがありますが、そのメロディが心の中をよぎっていました。(ここで歌ってもいいのですが、時節柄避けますが)どうぞインターネットなどで検索していただくといくつものサイトでお聞きになれると思います。

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
(新聖歌248番)

 まさにこの歌詞の通りだと思います。私たちの人生には「嵐」があります。ペトロも弟子たちも同じでした。今日の聖書を読むときに私たちも、委ねるに委ねられないことが記されてあるのです。それは何かといいますと「イエスが本当に湖の上を歩かれたのか」という壁が私たちを阻みます。イエスの奇跡が現実のことであったのか、おとぎ話なのかを解明することと、今日の福音の真理を理解することとは違います。

 この前に書かれてある記事は「イエスの5000人の供食」のお話です。5つのパンと2匹の魚を主イエスが奇跡を起こし、5000人以上の者が共に食事をしたというところから、今日の箇所22節になりますが、
「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」て「その間に群衆を解散させられた」とあります。奇跡が起こされた熱狂と興奮の場から、静かなところへと主イエスが弟子たちを「強いて」移動されておられます。興味深いところです。なぜ「強いて」までそうするのでしょうか。私は主イエスが弟子たちの信仰を見抜こうとされたのではないかと思うのです。

 向こう岸に弟子たちを渡らせて、群衆を解散させて、主イエスは弟子たちのところに行くのかと思いきや、「祈るためにひとり山にお登りになった」のです! そして長い時間そこに留まっておられたのです。

 その後、舟が大きな波風のために沖で大揺れに揺れたのでしょう。ようやく夜が明けるころになって、主イエスが弟子たちの前にやってきます。当初弟子たちは自分の師匠であるイエスを「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」26節)のです。もうこの時には完全に彼らは動転していました。

 いくら主イエスの弟子であって信仰を持っていても、恐怖におびえ、叫び声を上げるような様子に、私たちが重ね合わせられるのではないでしょうか。私たちも信仰を持っていても、迷うことがあります。怖気づくときがあります。動転することもあります。そのような現実の中で「神を信じる」とはどういうことか、神に「委ねる」ということはどういう信仰なのか、ここで身をもって主が体験させているのです。このことが、主イエスが「強いて」まで弟子たちを舟に乗せた意義でありました。

 そして、主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」27節)と弟子たちに呼びかけられるのです。ペトロはきっと感激屋ではなかったかと私は思います。彼はすぐに「舟から降りて水の上を歩き」始めました。けれどもそこに強い風が再び吹きます。ペトロは委ねられなくなります。自分の気持ちが先行していました。湖に沈みかけます。しかし、彼は素直でした。「主よ、助けてください」と叫びます。その後にはこう記されています。

「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。31〜32節

 私たちにとっても「助けてください」と言えるか、言えないか、今日主が私たちに問われておられることです。

 「日本二十六聖人」という私たちの信仰の先達がおられたことをご存知でしょうか。豊臣秀吉の時代に26人の神父や信徒たちが京都で捕らえられて長崎まで長い道のりを歩いて連行されて、1597年2月に処刑された人たちです。この中には14歳のトマス小崎、12歳のルドビコ茨木という子どもたちまでが含まれていました。この外国人宣教師6名と日本人信徒20名のうち、24名が京都で耳を切り落とされて長崎まで連れて行かれたそうですが、その道中、多くの人は、裸足でした。2月の厳しい寒さの中、手を後ろに縛られ、粗末な衣服をまとっての歩きながらの旅はただただ過酷であったことでしょう。

 その中にあってルドビコは常に明るさを失わなかったといわれています。共に処刑された宣教師が、連行される途中、密かに友人にあてた手紙の中に、この信仰に満ちた少年の明るい姿に残りの25人は何度も心を慰められて、力を与えられたと記しています。

 ある日、ルドビコを憐れんだ役人が、「信仰を捨てれば命を助けてやる」と言ったところ、「つかの間の命と永遠の命を取り替えるわけにはいきません」とこの申し出をきっぱり断り、役人を驚かせたといいます。このようなやりとりは何回もあったそうです。長旅の道中で、一行は見世物のようにさまざまな町を通っていったわけですが、ルドビコはあまりに小さな子どもであったために、信仰を捨てたならば、養子にしてやろうと申し出る地方の人もいたのですが、それにもこの少年は応じることはなかったのです。この強くてぶれない信仰はどこから来たものでしょうか。これは言い換えればすべて主イエスに委ねた信仰を持っていたからだと言えます。

 長旅も終わり、長崎へ到着しました。今の長崎駅に対面する位置にある西坂の丘というところです。昨年教皇フランシスコが来日したときに、彼はここで祈りを捧げました。26本の十字架が立てられたルドビコは、自分の十字架が見つけられずにいると、「あれがおまえの十字架だ」と役人から聞くとすぐに走っていって、その十字架に抱きついたそうです。最期にルドビコ茨木は、聖歌を歌い、黙祷をしてその時を待っていました。執行人が槍を構えると、「天国! 天国!(ポルトガル語で「天国」の意。パライソ! パライソ!)」と叫んで槍を受けたというのです。

 今の日本にこのような信仰の迫害はないかもしれません。しかし、永遠に無いとは言い切れません。今年のコロナ禍の歩みだけでも、私たちには予測もしないことが起こるのだと知りました。そして今この国はゆっくりと戦争への備えをしているかのように見えます。その中で私たちはそれぞれに自分の負うべき十字架を持っているはずです。それはとても重たいものです。それでも自らその十字架を負うものとなりたいのです。

 今朝、私たちは主イエスから「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と語りかけられています。今日の福音が教えることは、一切を主に「委ねる」ということです。そしてその時、主イエスも皆さんと同じだけ苦しんでくださいます。皆さんと同じ分、いやそれ以上にイエスは苦しんでくださる。イエスはまだ十字架から降りてきておられないのです! この十字架を進んで背負い、聖霊の助けをいただきながら、新しい1週間をイエスさまに従っていきましょう。


 
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