2020.07.26

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「そこに宝はある」

中村吉基

列王記上3:5,7〜12マタイによる福音書13:44〜52

 今朝もこうしてご一緒に礼拝ができることを感謝しております。今、感染者の状況が危ぶまれる中で、このように私たちが教会堂に集っての礼拝が再びできなくなってしまうことも懸念されます。どうぞそのことを憶えて祈っていただきたいと思います。私たちは今、分散しています。この礼拝に出席できる方々、それがかなわない方々、そしてホームページを通して礼拝をご自宅から捧げておられる方々、またそれもかなわない方々、さまざまな方々がおられます。しかし、私たちは主イエスを絆として結ばれている者たちです。今、私たちは思うような交わりができません。しかし、主イエスを通して結ばれていることは確かです。

 けれどもそんな私たちも、それぞれ違うことの一つは、人生のある時点で主イエスに出会っているのですが、それがいつ、どんな時であったのか、一人ひとりが違う経験を持っています。私は時々思います。もしイエスさまに出会っていなかったならば、今頃どんな人生を送っていただろう。皆さんにもぜひ思い起こしてほしいのです。主イエスに出会った日のことを、です。

 ある人は、お母さんのお腹の中にいた頃から教会に行っていたかもしれません。またある人はキリスト教主義の学校に学んでいた頃に、またある人は友人に誘われて教会の門をくぐったかもしれません。ラジオなどのキリスト教の番組を聞いて導かれた人もいることでしょう。そして主イエスには、教会に来られてすぐに出会ったでしょうか。そうではない人もいるかもしれません。

 多くの方は洗礼を受けておられることでしょう。なぜ洗礼を受けたのでしょうか? 私たちは惰性で洗礼を受けたのでしょうか。あるいは友達が受けるから一緒に受けたのでしょうか。いずれにしても洗礼を受けることによって私たちは主イエスに結ばれ、主イエスといっしょに二人三脚の人生を歩むことになりました。

 「初心忘るべからず」と申しますが、私たちが主イエスに出会った頃のときめきとか、感動などをもう遠い日のことのように忘れてしまっているかもしれません。今日の福音の箇所は、短いたとえ話が3つ続きます。いずれもマタイによる福音書にしか記されていない主イエスのたとえ話です。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(44節)。

 1つ目のたとえ話にはこう記されています。誰かに雇われて農夫をしていた人のようです。少なくとも地主ではありませんでした。聖書の時代、金品を土の中に埋めて保管するという習慣がありました。あのイエスの語った「タラントンのたとえ」(マタイ25章14〜30節)にも主人から金の管理を命じられて思わず土の中に埋めてしまう僕(しもべ)の姿が描かれています。この農夫は何かの拍子に畑に宝が埋められていることを知ります。持ち主などが亡くなった場合、宝のありかがわからないまま、放置されていることも珍しくないことでした。この農夫はどうしてもこの宝を手に入れたい、生活必需品すべてを売り払ってまで、畑を買おうとします。

 2つ目のたとえ話もこれにたいへんよく似た話です。

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(45,46節

 この時代、真珠はただでさえ高価なものです。でもここでは「高価な」真珠とあります。最高級のものを指しているのかもしれません。どのような真珠なのでしょうか。はたまた「真珠を超える何か」かもしれません。真珠という言葉が出てくる旧約聖書のいくつかの言葉に触れてみるとそれが何なのか分かるのです。

「さんごや水晶は言うに及ばず/真珠よりも知恵は得がたい。」(ヨブ28:18)

「知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない」(箴言3:15

 「知恵」とは神のことを表します。そして主イエスは知恵の教師でした。商人は「持ち物をすっかり売り払い」この高価な真珠を買います。

 先々週の礼拝でルカによる福音書19章からザアカイの話に聴きました。徴税人ザアカイが主イエスに出会った時、彼は

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8

 と言いました。主イエスの救いに与ることができたからです。「すっかり売り払う」というのと「半分を施し、だまし取った物は四倍に」というのとでは表現は違うものの、「喜び」が溢れ出ているような言葉です。

 冒頭で私たちが主イエスに出会った時を思い起こしましょうと申し上げましたが、農夫も、商人も「宝」であり、「高価な真珠」である主イエス(神)に出会ったのです。私たちはこのような神さまからの贈り物(ギフト)に出会う時、一つは労働の実りすなわち報酬として受けることがあります。しかし、皆さんに主イエスとの出会いを思い起こしてほしいと申し上げたのは、順当な出会いというよりは、「思いがけない出会い」ではなかったかと思うのです。人生のある日ある時、ある場所で主イエスとの思いがけない出会いをした私たちであるはずです。しかし、私たちは主との交わりが、持ち物をすっかり売り払ってしまうくらいの「喜び」となっているのかどうか、今日の福音が私たちに問うていることです。

 反対にこの3つのたとえ話は、主イエス(神)のほうから、私たちを尋ね求めてくださる姿にも読むことができます。48節からのところにある「漁のたとえ」もそうです。私たちは畑に隠された「宝」であり、「高価な真珠」であり、漁師である主イエスが私たち(ここでは魚)を救ってくださったと捉えることができます。主イエスが皆さんお一人お一人との出会いを切に求めておられるのです。この場合、ヨハネの第一の手紙3章16節に「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。」という言葉がありますが、主イエスは私たちのために命を捨ててくださったことによって、私たちには神の愛を知るようになったのは、まさに私たちを探し求めている主のお姿であり、あの九十九匹を置いてまで、いなくなった一匹の羊を探し求める(ルカ15章4〜6節)主のお姿を今日のたとえ話の中に見るのではないでしょうか。

 今日の福音が私たちに教えていることは、
(1) 今、私たちは農夫や商人のような情熱を持っているか
(2) 今、私たちは主イエスとともに生きる「喜び」に満たされているか
(3) 今、私たちは主のためにすべてを手放す勇気を備えているのか
このことが問われています。

 特に3つ目の「漁のたとえ」はたいへん厳しい言葉として私たちに響いてきます。けれども網が湖に投げ下ろされ、さまざまな魚が網に掛けられることを思う時、先週共に聴きました「毒麦のたとえ」と同じように、神はすべての人を招いておられること、「すべて」というのは「だれでも」「もれなく」なのです。

 その救いに招かれた一人として私たちがいます。このことを私たちの喜びとしたいと思うのです。そして私たちだけでなく、一人でも多くの人がこの主イエスに出会い、福音の喜びに生かされていけるように、新しい一週間も神の国の教えに生かされて証しし続けて参りましょう。


 
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