2020.07.19

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「そのままにしておきなさい」

中村吉基

創世記28:10〜19前半マタイによる福音書13:24〜30,36〜43

 今日の箇所は「毒麦のたとえ」と呼ばれるところです。冒頭の24節で「ある人」が「良い種」を蒔きました。しかし、26節でそれが生長していくと「毒麦」が現れたというのです。

 私たちの人生にも「まさか、こんなことが!」ということが起こります。けれどもその間の25節は、冷静に事情を説明しています。毒麦の種が蒔かれたのは、「人々が眠っている間に」起こったというのです。これは種を蒔いた人には過失がないことを意味します。蒔いた張本人は「敵」であるというのです。この人(24節では「ある人」、27節では「主人」と記されています)に何らかの恨みがあった者の仕業でしょう。2000年前のパレスティナではこういうことが日常のこととしてあったようなのです。

 29節で僕(しもべ)たちが主人にこう言います。

「行って(毒麦を)抜き集めておきましょうか」。

 しかし、主人は意外な答えをします。

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。

 毒麦を抜いてしまうと良い麦まで一緒に抜いてしまう可能性があるので、「そのままにしておきなさい」と言うのです。

 私たち人間は不安になるととっさにその原因を消し去ろうとします。しかし、主人は言うのです。「そのままにしておきなさい」。これがもし病気の原因となるものであったら私たちは気が気ではないでしょう。自分の身体に病巣が潜んでいれば一刻も早く消し去りたい。それが私たちの正直な気持ちです。人間関係でもそうです。「あの人さえいなければいいのに……」。しかし「敵」、ここではサタン、悪魔のことを意味します。その敵を裁くのは私たちではないのです。最終的に神さまがなさるのです。

 良い麦と毒麦は外見からは判断がつきにくいのです。このたとえ話を先程言いましたように「世の終わりに神様の裁きがある」と捉えるではなく、「今、あえて私たちは裁かないのだ」と捉えることもできます。

 このあとの36節から主イエスによってこの「毒麦のたとえ」の説明がなされています。これによればこの世の終わりに神様は毒麦(=罪人、と解釈される)を集めて火で焼かれて裁かれるということを教えているのがこのたとえ話の意図だとされますが、私はこれが本来の主イエスが話された意図だとは思えません。おそらくこの「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が加わっていったとも考えられます。そう考えてみると、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。

 そうであるならば、このたとえ話も主イエスを批判する人たちに応えるものであったかもしれません。その批判というのは「なぜイエスは毒麦のような貧しい人や社会的に差別されていた人、あるいは病人を神の国に招くのか、またはそういう人を弟子にするのか」という批判です。主イエスはあらゆる人々を「友」と呼んだからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということでしょう。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間から見れば毒麦と映っても、神様から見れば尊い人として生かされる」かもしれないのです。「毒麦」が「罪人」とレッテルを貼られていた人を意味するならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってあるかもしれません。そして私たちが「良い麦」だと信じていたものが実は「毒麦」であるのかもしれません。

 神様は人を変えられるからです。

 私たちは今日の「毒麦のたとえ」からさまざまな人を受け入れる姿勢を学ぶだけではなくて、誰をも切り捨てることのない神の国の姿、主イエスの愛を感じ取りましょう。神様は誰一人も見捨てたり、見放したりすることのないお方です。

 私たちの周りには確かに多くの悪が存在します。2001年にアメリカで同時多発テロが起きたときにも「悪(毒麦)は排除すればよい。犯罪を厳しく取り締まり、 悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」と考えた人々がいました。そういう考えが世論の多数を占めたために、イラク戦争をはじめとする「報復」が行われていきました。私たちの中でも、「罪人を排除すればよい社会が(組織が、教会が)ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。しかし、そんなことをしても全く平和にはならないことを今日の「毒麦のたとえ」は教えているのではないでしょうか。神様は悪さえも善いもののために役立てて、いつかそれらも善いものに変えてくださると信じることができたら幸いです。もし皆さんの周りでたとえば「この人たちがいなければいい」と思ってその人たちを抜き去ってみて、「さあこれで平和になるだろう」と思って安心していたら、残った人の中からまた同じ割合で抜いた人と同じ数の困った人たちが出てくるかもしれません。仕方なくそれを抜いたらまた同じ割合で現れる。そうして抜いて、抜いて、抜いていったら全員いなくなる。もう人がいないのですから当然平和になるかもしれない? なぜなら誰もいなくなるから何の事件も起こらない。そうではなく、「そのままにしておきなさい」という神様のやり方は、私たちが「これを抜けば良くなる」と考えているのと正反対の考えです。

 また神様は「抜くことができない」と仰せになっているのではないのです。神様が抜こうと思えば簡単に抜けます。でも「そのままにしておきなさい」と仰せになります。どうしたら人間や人間の集団が本当により良くなれるのか、その答えをいつも私たちは主イエスの生き方とメッセージの中に探して、それを身に着けて社会の中で生きる者へと変えられましょう。ご一緒に「刈り入れの時」を待ちましょう。

 「今、私たちは何をすべきでしょうか」今日主イエスは私たちに教えておられます。


 
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