電車の中で、ほとんどの者たちが知らないもの同士乗り合わせているところに、身体に障がいを負っている人や、少し奇抜なファッションをしている人、あるいはホームレスの方などが乗車してくると、突然その人たちの方へその車内のほとんどの人が視線を投げかけている光景に出合うことがあります。今でしたら、マスクをしないで電車に乗っている人、咳をしている人などにも同様のことがあろうかと思います。そして私たち自身もそのようなまなざしを送ってしまう一人になることがあります。
このコロナ禍以前でしたら東京には外国人観光客が押し寄せるように集まり、かつてに比べれば外国人の方々を目にする、交流するということが珍しいことではなくなりました。私が初めて外国に行ったとき、それは日本人などもいない小さな地方の町でしたが、人々の好奇の目にさらされるような体験をしました。ダウンタウンを歩いていてもそう、レストランに入っても、そして教会でもそうでした。名誉のために言っておきますが、私はその町でそういう経験をしましたが、その街の人々(特にユダヤ系の人びと)に歓待されました。その理由を知ったのはずっと後のことでしたが、第2次大戦中にリトアニアの日本領事代理をしていて六千人ものユダヤ人へのビザ発給をした杉原千畝氏が日本人であったということで、とりわけ日本人には親切にしてくれていたのです。
今日の福音に出てくるザアカイも同じように好奇に晒されていた人でした。ザアカイは徴税人の仕事をしていました。しかも2節にはその頭であったと書かれています。その上、金持ちであったともいうのです。徴税人はローマの手先として貧しいユダヤ人層から税金を取り立てていました。ローマに納入するために無理やり人々から取り立てていました。それだけではありません。高額の手数料まで取って私腹を肥やしていましたから、ユダヤの人々から猛烈に嫌われていたのです。異邦人であるローマと接点を持っていましたから、汚れた存在としてユダヤ人たちからは決めつけられ、「罪人」とレッテルを貼られていました。同じルカによる福音書18章11節には、神殿に祈りにいった徴税人に対して、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」とファリサイ人が言っていますが、これは当時の人々の徴税人に対する思いが反映されている言葉であるといえます。
軽蔑に満ちた白い眼、あるいは憎しみのこもった人々の思いが徴税人の頭であったザアカイに注がれていたのです。そのような視線にさらされていたザアカイの心は冷え切っていたのではないでしょうか。金持ちであった彼は、そのほかの面では順風満帆な日々であったのではないかと思うのです。しかし、ひとたび一人になれば、孤独で、世間の目に心休まる暇もなかったことでしょう。人々の冷たい視線を感じながら、それに負けないように歯を食いしばって堪えていた日々であったかもしれません。時にはもう心の糸がぷつんと切れてしまって涙を流すこともあったでしょう。またその反対にストレスから、酒を飲み、荒れ狂うときもあったでしょう。ザアカイを抱きしめてくれる人はいませんでした。彼の心はあたたかな愛と人のやさしさに飢えていて、ザアカイが最も必要としていたのは、この「愛とやさしさ」でありました。
ザアカイの住むエリコの町に主イエスがやってきました。一目主イエスのことを見ようといちじく桑の木に登ってまで彼を駆り立てていたものは、好奇心ではなく、「救われたい」と思うザアカイの心の渇きであっただろうと思います。おそらくザアカイのところにも世間から疎外されている人々、ザアカイと同じように白眼視されていた人々をあたたかく包みこむイエスという男の噂を聞いていただろうと思われますし、姦通した女性や娼婦たちを守って、律法学者やファイリサイ派とも妥協しない主イエスのことを知っていたはずです。
主イエスは何かがほかの人とは違っていた――あたたかさがあり、やさしさがあるその方のことを自分で見極めようとしたのでしょう。いてもたってもいられない、徴税人の頭が、背が低かったとはいえ、子どものように木に登るという行動ぶりから見ても、彼の心にはぽっかり穴が開いて、乾き、飢えていたのです。
主イエスはいちじく桑の木の下に来ると、ザアカイに言葉をかけました。
このとき、もう何年も味わったことのない、あたたかな視線(まなざし)がザアカイに向けられました。それは白い目ではなく、彼を包みこむあたたかな、愛に満ちた「視線」です。冷え切ってどうすることもできないザアカイの心は、幼い時に母が彼の傍らでやさしく見守ってくれたときと同じようにしてほぐれていきました。主イエスはザアカイの求めがお判りになったのでしょう。閉ざされていた彼の心はようやくほぐれてきました。そこに主イエスのまなざしは注がれ、そうして、彼の心に安らぎを与え、喜びでいっぱいにしました。
主イエスはこう言われました。本来のニュアンスですと、「あなたの家に留まらねばならないから」です。主イエスはとても大胆な人でした。なぜなら、今主イエスを取り巻いて集まっている群衆は徴税人を軽蔑する人々です。中にはファリサイ派の人々もいたと思うのですが、そういう人々がいる前で、ザアカイの家に宿をとりたいと主イエスは仰せになるのです。これはもちろんザアカイと一緒に食事をするということでもあります。食卓は交わりの場であり、分かち合いがなされるたいへん重んじられたことです。この主イエスのやさしさがザアカイの心を完全にときほぐしてしまうのです。そしてこれはどのような人をも滅びることを望まれない神の愛に触れることでもありました。
この愛のあたたかさにいのちの芽を吹き返したザアカイの心は叫びます。
ザアカイはこの日を境に人に分かち合う生き方、自ら与える人になっていきました。そして主イエスは9節「今日、救いがこの家を訪れた」と祝福されました。ザアカイはありのままの自分を受け入れ、友として接してくださる主イエスの姿にことごとく揺り動かされました。そしてなんと彼の人となりをも変えてしまったのです。
つい最近もまた、アメリカでのアフリカ系(いわゆる黒人)の人たちへの不当な差別、殺人に端を発して、反差別運動の大きなうねりが世界中に広がりました。渋谷駅前の広場でも若い人たちを中心に抗議活動が行われました。6月7日の週報に記しましたが、この渋谷区内の路上でも30代のクルド人男性が不当に2人の警察官に押さえ込まれて、首に全治一か月の怪我を負ったという事件がありました。クルド人男性は「交通違反も何もしていないのに、ただ外国人だというだけでひどいことをされた。外国人だから話も聞かずに乱暴することが許されていいのでしょうか」と新聞の取材に答えています。またこの方の車の中にあったものなどが勝手に壊れて放置されたということです。私たちのすぐ近くでこのような事が起こっています。
神の造られたこの世界の中で私たち一人一人の誰が欠けてもそれは不完全なものです。主イエスの目線にはいっさいの境界線はありませんでした。今朝主イエスのまなざしを私たちの心に宿しましょう。主イエスの視線を、自分の眼を通してこの世に証ししていきたいと願うものです。