今回より山上の説教は新しいテーマに入ります。マタイ記者がユダヤ教に勝るキリスト教の教えとして、イエスの教えを編纂しようとしているのですが、前回までは、序論として全ての人々を招き入れる「幸福への招待」に続き、イエスに従う者の特質を「地の塩、世の光」として掲げた後、ユダヤ教で最も関心のある律法について「殺人、姦淫、離婚、誓約、報復、」についてイエス独自の言動を対比させ、これら全てを結ぶ頂点に「同族への隣人愛を越える、敵への愛」をもって、ユダヤ教の旧律法に勝る新律法をイエスの教えとして、マタイ記者は山上の説教として提示して参りました。そして、これからは暫く、ユダヤ教で大切に守り、教えて来た儀礼について、旧・新を対比する仕方で展開しようとしています。
誰でもお分りのように、掟や律法はそれに従って生きるための規準や指標でありますが、それに基づいて具体的に生きている有様、それによって日常生活がどのように営まれているかを規定している、これが宗教儀礼であります。ユダヤ教で最も重視していた儀礼は神殿祭儀(これを私達に当てはめれば礼拝)になります。神殿に結びついているのが「施し」です。次に、「祈り」、第三に日常生活の中で行われる「断食」が続きます。マタイ伝6章では「施し」、「祈り」、「断食」について、これよりイエスの言葉を対比させながら、旧儀礼に対する新儀礼を山上の説教としてマタイ記者は纏めています。
本日は先ず、「施し」の問題に入る訳ですが、その前に、どの宗教宗団にも宗教儀礼はあって、大方、マタイが挙げた3つの儀礼がどの宗団でも守られ、勧められていることに触れておきたいと思います。ユダヤ教、キリスト教から枝分かれしたイスラム教では礼拝を毎日励行するように勧め、1日・5回にわたり跪拝(きはい)が行われます。聖地メッカに向かって跪き、礼拝を捧げます。それも5回にわたり(眠りから覚めて程なく第1回目、2回目は10時頃、3回目は正午に近い時刻、4回目は午後3時ごろ、そして最後に日没に近い時刻、合計5回にわたり跪拝が行われます。「礼拝、跪拝」の他に、施し、祈り、断食、それに巡礼が宗教儀礼として守られています。
カトリック教会では礼拝にあたるミサがあり、教会では毎朝、毎夕、誰でも参加できる仕方で礼拝が守られています。ミサと繋がって、入信時の懺悔の他に、信徒になってからも日常生活で懺悔の勤めが大切な儀礼としてなされています。教会には聴解(聴罪)司祭がいて、信徒の懺悔(ざんげ)を聞き、信徒は告解のあと司祭と懺悔の祈りを合わせます。断食は灰の水曜日と、聖金曜日に行われますが、全く食べ物を断つのではなく、これらの日には肉を断ち、1回の食事で済ませます。また、巡礼はイスラム教と並んで重視していますが、聖地はヴァティカンばかりではなく、奇跡が起きた聖地(ルルド、サンティアゴ・デ・コンポステーラなど)にも出かけています。修行と信仰の証として守られています。
仏教については西欧の宗教で行われるような決まった曜日に礼拝が持たれてはおりませんが、僧侶は毎朝お勤め(勤行=ごんぎょう)と呼ぶ儀礼を早朝に行っています。信徒一般が参加するお勤めは法事と呼ばれる行事であります。そして「施し」にあたる儀礼には「托鉢(たくはつ)」があり、貧しい人々に救済と……托鉢僧にとっては修行の1つとして托鉢が行われています。キリスト教でも托鉢修道会が、宗教改革の先駆けとして中世に起こり、腐敗したカトリック教会を離れて貧民救済と信仰刷新運動として活躍しました。フランシスコ会、ドミニコ会などの修道院が生まれたり、組織や宗団を持たない、貧者の運動としてワルドー派やカタリ派が活躍し、これが15,6世紀の宗教改革に繋がっています。
貧富の格差が広がりつつある現在、社会福祉と云う制度の改善に合わせて、新たに民衆運動が必要な時代であるように思います。ボランティア運動は市民の正にボランティアによって支えられておりますが、教会は歴史的に見てもボランティア運動の先駆者であり、18世紀のイギリスで生まれたメソジスト教会はその伝統を受け継いでいます。「施し」の問題は宗教儀礼を越えて、今や、市民社会の中で受け継がれ、成長している運動であります。宗教儀礼であれ、市民運動であれ、イエスが説いている「施し」の問題と取り組むべき姿勢は普遍的に変わりありません。
マタイ6章1節は「施し」、「祈り」、「断食」と云う基本的な宗教儀礼で人々が留意すべき心構えを語っています。
ここで「善行」と新共同訳では訳されておりますが、3つに関わることなので、ギリシャ語の原文通り、「義」と訳した方が適切であるように思います。「人に見られて、褒められるために義を行ってはならない」と云う忠告です。ユダヤ教に勝るキリスト教の義として、この福音書記者は3つの儀礼(施し、祈り、断食)を捉えています。そして、最初の儀礼である「施し」と云う言葉は「憐れみ」とか、「慈悲」とも訳せる、エレーモシュネーが使われています。マタイ記者が好んで用いる言葉で、山上の説教・冒頭で歌われている祝福の呼びかけでも、マタイは用いています。「憐れみ深い人たちは幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」(5章7節)。
ここで使われている「憐れみ深い」と云う言葉は名詞形 έλεήμων(エレーモン)の形容詞にあたります(έλεημοσύνη・エレーモシュネー)。相手に同情を寄せる、悲しみや痛みを共有する、と云う意味を持っています。施しやお布施、托鉢の原点は「他者への憐れみの情」から働く務めであることを、この言葉がよく表しています。「貧しい人」、「飢えている人」、「泣いている人」を見ていながら、相手に同情を寄せるばかりでなく、その痛みを分かち合う心から、同時にその欠乏を分かち合うために、相手に金品を施す業へと広がり、こうして「憐れみ」は「施し」と云う言葉と同じ意味に用いられるようになりました。欠乏や涙の分かち合いから、具体的に物的支援へと向かう運動の中には純粋な心を読み取ることが出来ると思います。人前で善行を見せびらかすために、施しをするような行いではありません。イエスは施しの原点を見つめ、他者への同情と憐れみ、共感からなされるはずの施しを、ここで教えておられます。憐れみの情こそ、他者と自分が結び合う心の絆の原点ではないでしょうか。しかも、憐れみの心は誰もが神から頂いている恵みであり、家族や友人、他者と一緒に生きる上で欠かすことの出来ない心情として各人に備えられているものです。
イエスはこうした心の基盤に目を向けて施しの業を説いておられます。広場や会堂、神殿など多くの人々が集まるところに物乞いも集まります。そのような時に「見てもらおうとして、人々の前で善行をしよう」とする邪念が起こります。こうした行いをマタイ記者は「偽善」と呼んでいます。そして、そのように振舞う人たちを偽善者と云っています。偽善者にあたる言葉をギリシャ語の聖書ではヒューポクリテース(υποκριτής)と云っています。この言葉は元来、演劇で活躍する「俳優」「役者」や「演技者」を意味しています。役柄と本人とは必ずしも一致していないことから、「偽善者」という意味へと転じていった言葉であります。マタイ記者がこの言葉を好んで用いておりますが(マタイ6:2、7:5、22:18,23:15)、当時のユダヤ教律法学者やファリサイ派の人々を批判する言葉にもなっています。必ずしもイエスに遡る言葉ではありません。行っている事と、実際に考えている事とが違っている、見せるための慈善行為であれば、実に相応しくこの言葉はよく当てはまります。よく国会議員が共同募金の赤い羽根を襟もとに付けて、公僕の証にしているのとよく似ています。
赤岩 榮先生は牧師であると同時に永年にわたり全生連(全国生活と健康を守る連合会)と云う日雇い労務者の団体で会長を務めておられたのですが、このことはほとんど知られておらず、ご自分でも話すこともなかったので、先生の葬儀の時に、この団体の代表が教会の会堂に来て弔辞と挨拶をされたので、ほとんどの教会員は初めて知ることになりました。私は本日のこのテキストを目にする時、赤岩先生のそのようなお姿を思い出します。そして先生が正にこの言葉通りに生きておられたことに感動を新たに致します。
先生は本心から日雇い労務者のような弱い立場の人たちと心を分かち合い、同情と共感によって結ばれていたことが分かります。「憐れみの心」「共感」から発する働きは他人に見せたり、誇りにしたりする行いではありません。共感以外の何ものでもないからです。先ほどは、エレーモシュネーと云う言葉でしたが、共感にはもう一つの言葉、シュンパテース(συμπαθής)も聖書では使われています(1ペテロ3:8他)。英語でsympathy と云う言葉がありますが、その語源にあたるギリシャ語です。シュンという接頭語は前置詞でもありますが、「共に」と云う意味で、英語のwithに当たります。そして後半の言葉である παθής(パトス)は、ギリシャ語では「苦難」「苦しみ」を表す言葉です。合成するとこの言葉は、「同じ感情を持つこと」、「同情すること」、「苦しみを共にすること」と云う意味を持っています。相手への共感の窓口は、いずれも人生のマイナスと思える苦しい出来事であり、相手の苦難を共有する、そこから同情や慈善が始まるのです。善行を見せて褒められたり、崇められたり、時には自分の利益になるように人前でアカラサマに見せびらかす行為ではありません。イエスも、マタイ記者も慈善の原点に立ち返り、指導者たちの偽善的な施しを批判しています。そしてその指摘は今も生きています。そのことを重く受け止めた上で、私は恐らくイエスではなく、マタイ記者の発想に少し違和感を覚えるところがあります。それは、「天の父から報いを受ける」と云う言葉です。天の父なる神は、私たちの全てをミソナワシテおられる。詩編139編の作者がいみじくも歌っている言葉に共感を覚えるものであります。
こうした前置きのあと詩人が最も語りたかった言葉が13節以下で歌われています。
このように隠れた所で見ておられる神の力を感謝と賛美の方向で語るのではなく、マタイ記者は、最後の審判で報いを受けるか、呪われるか、天国に入れるのか、地獄へ落ちるのか、という次元にすり替えているところに私は違和感を覚えるのです。最後の審判と地獄の脅しと恐怖心は歴史上、大変不安定な時期によく起きています。所謂、終末思想、世の終わりが囁かれ、それに便乗して宗教指導者たちが末法思想を語り、自分の宗教集団の活性化を図っています。弱小国ユダヤがペルシャの脅威に晒されていた時代がそうでした。また、ローマ帝政下にもありました。ヨハネの黙示録はその典型です。中世後期・宗教改革の時代もそうでした。事によると現代社会もそうであるかもしれません。アメリカのトランプ大統領は弾劾裁判を「魔女狩り」と呼んでいますが、為政者が恐怖心を民衆に掻き立てて権力の座にしがみつき、存続を図る方便に使われています。イエス時代にも末法思想はありました。しかし主・イエスはこうした扇動者に騙されないように注意を喚起しておられます。
イエスからおよそ半世紀後に生きているマタイとその教会は、いささか末法思想に引き戻されている様子が伺えます。終わりの裁きを布教に取り入れているからです。
善行への報酬は終わりの日に訪れる裁きの席で頂ける、と云う思想は終末思想に繋がり、最後の審判という脅しが隠されています。しかしイエスはそうではなかった。全ての人を救いへと招き入れておられるお方です。イエスと一緒に十字架に付けられた犯罪人に対してさえも、主はこう言っておられます。「アーメン(誠に)、あなたは今日、私と一緒にパラダイスに入る」(ルカ23:43、私訳)。犯罪を犯した死刑囚に対してさえも、パラダイスの約束をしておられます。また、ヨハネ福音書では告別の説教が14章から16章にかけて記されています。そこにも、地獄とか脅しと裁きの言葉はありません。最後まで回心と愛の掟に生きるよう、別れに際しても人々を励まし続けておられます。
このような愛の内に生きる私達は苦難のうちにある友への同情と共感、同苦から慈善と呼ばれる援助の手を差し伸べたなら、その場合には、自分の得を高めたり、終わりの日に褒められたりする為に、そのようにしている訳ではありません。隠れた事を見ておられる天の父が誉めて下さるとすれば、それは未来や終わりの事ではなく、今、目の前にいる友との交わりのなかで与かる恵みではないでしょうか。
報酬を終わりの日に与かれるかどうか、と云う心配は終末思想や、最後の審判と云うキリスト教以外のどの宗教にも見られる、脅しや威嚇を伴った布教の方法です。人の弱みにつけ込んだ布教やプロパガンダに聞こえます。確かに私達は誰もが弱さを抱えています。困っている人を見ても、見ないふりをして通り過ぎたり、同情や共感とは裏腹の行動を取ることもあります。心の中には後ろめたさや、罪責感を抱くこともあります。物が豊かであっても、心を貧しくする時、憐れみを受けなければならない存在に私達は転落します。「主よ、私を憐れんで下さい」と懺悔しなければならない弱さを抱えて生きています。終わりの日の裁きは、実に有効に働き、私達を少しでも善人になるべく努力をします。マタイ記者がイエスの教えを、そのように、終わりへの備えとして位置づけたことも良く分かります。しかし、イエスは、私達が今に生きることを励ましておられます。どんなに懺悔をしなければならない人間であっても、赦されて今を十分に生きる務めを語っておられます。復活の主が、弟子たちとの別れに際して、こう語っておられます。
こう語られたイエスは生前、ペテロにこう語っておられました。
このように、どんな罪を犯しても、赦された恵みに与かって再出発をするのが、地上における私達の生きるべき在り方です。そのことは人生の終わりにあっても変わりません。私達は、恵みによって赦しを与えられ、生かされて生き、恵みによって御許へ召されて行くのです。その終わりは、恵みと救いの完成であり、喜びの宴席であることを覚えつつ、残された地上の歩みを共に励んで参りましょう。