先週のイースター礼拝では、復活に立ち会った女性の弟子たちあるいは男性の弟子たちの受け止め方をヨハネによる福音書から聴きました。今週もその復活の光の中で、それぞれの経験をした人々の姿を引き続きヨハネによる福音書から見ていきましょう。
今日の箇所は「週の初めの日」という言葉で始まります。週の初めの日とは、主イエスが復活をされた日曜日のことでした。主イエスの弟子たちは、再び一つの家に集まっていました。あの最後の晩餐のあった木曜日にゲツセマネの園で主イエスが敵対者に捕らえられるその時、彼らは主イエスを見捨てて、逃げ去ってきたのでした。そして、金曜日、主イエスが十字架上で残忍な死を遂げたことを知って、これまで自分たちが頼りにして従ってきた主イエスがいなくなって、「抜け殻」のように過ごしていました。おそらく彼らの心の中ではこれまで築きあげてきたものが音を立てて崩れていったことでしょう。また愛してやまなかった主イエスを最後には見捨てたという自責の念もあったかもしれません。しかし、彼らは今はもう、どうすることもできませんでした。そしてこれから先、どうしてよいかもわかりませんでした。それだけではありません。主イエスを処刑した人々が、今度は自分たちを標的にしてくるかもしれない……そんな不安の中で彼らは家の戸の鍵をしっかりとかけていました。戸の鍵だけではありません。このとき、不安と恐れに満ちた弟子たちの心の「戸」もしっかりと閉ざされていたのです。
家の戸の鍵をしっかりとかけておいた……。かけておいたはずなのに復活された主イエスはその只中にやってきます。そして「あなたがたに平和があるように」と言われて両手とわき腹を見せて、あの十字架にかけられた主イエスご自身なのだと彼らに示します。主イエスが真っ先に言われた言葉は「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。これは「シャローム」というヘブライ語です。今でも用いられる日常の挨拶の言葉ですが、「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」もこの「あなたに平和(平安)があるように」という祈りの言葉で挨拶を交わしました。今日の聖書の場面は夕方です。ですから主イエスは「こんばんは」と言ったのでしょう。
ここで、「平和があるように」と告げた主イエスの言葉から真摯に聴くべきであろうと思います。なぜなら自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを咎めも叱りもせず、何もなかったかのように彼らに祝福の言葉を贈る主イエスにすがすがしいまでの愛を見るのです。そのとき、弟子たちの心から恐れが出て行きました。だから彼らは素直に「ほっ」と、何かの鎖から解放されたように喜んだのです(「弟子たちは、主を見て喜んだ」20節)。
あの最後の晩餐の席上で主イエスは「わたしはあなたがたのところに戻ってくる」そして「まことの平和を与える」と彼らに約束をされていたのです。その言葉を弟子たちは今、実感をもってかみしめていました。主イエスの言葉が今、ここで現実のこととして、自分たちに迫ってきている体験をしたのです。だから「主を見て喜んだ」のでした。そして弟子たちのほうはというと、主イエスを見捨てた自分たちはゆるされ、今、死に打ち勝って自分たちとともにいる主イエスを深い喜びに満たされている実感が湧いてきました。
この復活の主イエスが与えてくださる平和は、弟子たちの生きかたをその根本から変え、彼らはこの世の中で主イエスが示した神の国の実現のために、懸命に生き抜くようにと新しく希望を与えられたのです。
今日の箇所を読みました時に、私はいつか見た、マザー・テレサのドキュメンタリー映画の一場面を思い起こしました。マザー・テレサは路上で行き倒れている人を見つけると、その人を丁寧に、自分たちの施設に連れて行き、全身をきれいに洗います。そして名前を聞き、次に宗教を尋ねます。キリスト者であろうとなかろうと何の区別もなく、その人の手を握り、さすり続けるのです。もはや言葉を理解することもできず、行き倒れて今にも息を引き取りそうな人に向かって、「あなたの人生には意味があった、この私が最後まで共にいるのです」と心の中でつぶやくのだそうです。これ以上の幸福な死もまた他にはないのではないでしょうか。マザー・テレサは近づいて、寄り添って平和をくださる主イエスのことをよく知り、親しく、交わっていたのではないかと思うのです。自ら、人々から目をそむけられて、社会の片隅に置かれ、なお死に瀕している一人に手を差し伸べたのは、まさしく彼女が「近づいてくる神」の手となっていたと言えます。
さて、トマスというひとりの弟子がいました。復活の主イエスが家に入ってきたその時に、彼は残念ながらその場には居合わせませんでした。トマスは、ほかの弟子たちが、主イエスが来られたときのことを話しても、信じることができません。25節に「ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。トマスは自分の五感を使って、確かめてみなければ決して信じないという現実的なタイプの人でした。賛美歌の歌詞にもあるほどですが、このトマスのことを「疑い深い」とされることが多いのですが、むしろ絶対確実なことだけに信頼を寄せる人ではなかったかと推測できます。その意味では堅実なタイプの人であったかもしれません。
しかし、このトマスにも主イエスは現れてくださいました。先の出来事から八日後のことでした。このときも家のすべての戸が閉ざされていたはずなのに、主イエスはやって来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と仰せになったのです。そして主イエスはトマスにご自分の手の傷を見せて傷跡に触れるように促して、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」とも仰せになるのでした。トマスは主イエスのみ傷に触れることなく、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と告白します。彼の率直な言葉であっただろうと思います。そして主イエスは「見ないのに信じる人は幸いである」とトマスを激励するのです。
エルンスト・バルラハという20世紀前半のドイツの彫刻家が、この主イエスとトマスの彫像を残しています。実に主イエスのトマスを見るまなざしとトマスの何か懇願するような、全幅の信頼を主イエスに寄せるような眼の表情がとてもリアルな作品です("Das Wiedersehen"「再会」, 1926)。 そしてこの主イエスのみ言葉とそのまなざしとは主イエスを実際に見ることのできない現代に生きるわたしたち一人ひとりへのメッセージでもあります。私たちはこの「見ないのに信じる人は幸いである」とのみ言葉をどう捉えたらよいのでしょうか。トマスは口ではいろいろなことを言ったでしょうが心の底から主イエスに自分も会いたいと思っていたことでしょう。そして私たちもこの現代に、自分の生活の中に主イエスを見つけることができます。再びマザー・テレサの言葉を紹介しますが、彼女はこう言いました。
主イエスの弟子たちは敵対者が今度は自分たちに標的を向けてこないかと家に入り、息を潜め、鍵を頑丈にかけて戦々恐々としていました。トマスも「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 と言いました。そして私たちもです。
私たちは自分の日々の生活を振り返ると、主イエスがすぐそこまで来られているのに、自分の心の扉に頑丈に鍵をかけてしまっていて、主イエスを追い返していることはないでしょうか。もし、そうであるならば即座にこの心の扉を開いて、主イエスをお迎えする必要があります。トマスや弟子たちのように人生をかけて、復活の主イエスが今も生きておられ、私たちに<いのち>を与えつづけてくださっていることを伝えていかなければならないでしょう。
復活した主イエスは今も、たとえ鍵がかけてあっても私たちの内に生きてくださり、また私たちの周囲の人々の中にも生きておられます。そして私たちの友となってくださいます。私たちは本来、毎週ここに集まって礼拝をささげていますが、今はそれぞれに散らされていたとしても、私たちが心をひとつにして信じるものとなって礼拝をささげるときに主イエスはいつでも、いつも……そしていつまでも真ん中に立ってくださり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、新しい道を開き、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と今日も呼びかけておられます。