皆さん、イースターおめでとうございます。
イエス・キリストが十字架の上で亡くなられたのは、金曜日の午後3時ごろであったと聖書は告げています。傷だらけになり、血みどろになったそのお身体は十字架から下ろされて、亡骸はすっぽりと亜麻布で包まれて、頭には別の布が覆われて、岩に掘られた洞窟のような墓に葬られました。墓の入り口には大きな石で蓋をしました。普通であったら、亡くなった人に対していちばんきれいな服を着せてあげるとか、たくさんの花を飾るというのが私たちの常であろうかと思いますが、しかしユダヤ教の掟では、金曜日の日没から日曜日の夜明けまでの安息日はすべての労働を休むことになっていましたから主イエスの亡骸を引き取ったものたちはごくごく簡単にしか葬ることが出来なかったのです。
さて、今日の箇所にはマグダラのマリアという女性が登場します。主イエスを愛して、慕っていた弟子の一人でした。マリアは上等の香油を用意しておいて、日曜日の夜明けが来るまで待ち、まだ暗いうちに主イエスが葬られていたお墓に行きました。マリアの目の前でひどい苦しみや辱めを受けて、十字架で死んでいかれた主イエスに、今のマリアが出来ることはその亡骸に香油を塗ってあげることくらいでした。ところが、墓の前に来て見ると蓋をしてあった石が転がしてあって、主イエスの亡骸は見当たりません。マリアはとても驚きました。何者かがイエスの遺体をどこかに持っていってしまったのかとも思いました。
マリアは主イエスの弟子、ペトロとイエスの愛しておられたもう一人の弟子のところに行って知らせました。この二人の男の弟子は大急ぎで墓のところまでやってきましたが、マリアの言ったとおりに主イエスの亡骸は見つけられませんでした。しかし墓が荒らされていた様子は無く、亜麻布はそこにきちんと置かれていましたし、頭の覆いも別のところに丸めてありました。そのとき、このもう一人の弟子には、主イエスは復活されたことが分かったのです。8節に「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」とあります。この弟子には主イエスが十字架に架かられる前の晩に言われていたこととこの墓での光景が結びついたのではないでしょうか。それは主イエスが仰せになったこの言葉です。
話をマグダラのマリアのことに戻したいと思います。マリアは主イエスと出会い、主イエスが十字架に架かられた時にも逃げずに留まり、埋葬までを見届けます。彼女は主イエスと出会うことがその人生において決定的なものを得ていきます。かつて主イエスに出会ったときに彼女にとりついていた7つの悪霊を追い出してもらうことがありました。マリアは主イエスによって癒され、それだけではなく生きる意味も見出し、人生を前向きに生きていく希望も得たのです。自分のいのちを救い、生かしてくださった主イエスのために、彼女はどんなときにも主イエスのそばから離れたり、あるいは多くの弟子たちが十字架で死刑にされる主イエスのもとから逃げていくようなときにも、けっして主イエスを裏切るようなことはしなかったのです。言ってみれば彼女にとって主イエスはすべてでした。
ペトロたち男の弟子たちが十字架の主イエスから逃げ出すということは、ほかに「行くべきところ」「逃げ隠れるところ」があったからでしょう。しかし、女のマリアは主イエスのほかに行くところや逃げるところはなかったのです。彼女にとって主イエスを失うことは考えられないことでもありました。11節に、彼女は「泣きながら立ち続けていた」とあります。その前の10節にペトロたち二人の弟子が「家に帰っていった」と記されていますが、大きな違いです。「泣く」というのは悲しくて泣く、感動して泣く、怒って泣くこともあります。いずれにしても激しく心が揺さぶられて泣くわけです。マリアにとってみたらせっかく主イエスによって救われ、人生に光が差し込んで希望を持つことか出来たのに……また絶望のふちに落とされてしまったという涙ではなかったでしょうか。
マリアは墓の外に立って泣いていました。しかし墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使がいたのです。天使たちがマリアに、「なぜ泣いているのか」と尋ねると、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」後ろを振り向くと、主イエスがそこに立っておられた。しかし、どういうわけか、その人がイエスだとは分からなかった。マリアはてっきり造園業者の人だと思っていました。その時その人も尋ねてきました。
マリアは、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。」
こういうやりとりがなされます。
その時、この人は「マリアよ」と名前で呼んだのです。
マリアは目にいっぱいの涙をためて大喜びでイエスを「先生!」と呼び返しました。
皆さんにも身近な人が死別されたという経験があるのではないでしょうか。
身近な人がいなくなってしまうということはとても悲しく、辛い出来事です。亡くなってしまった人とともに「時」を共有することができません。その人のぬくもりに直接触れることも出来ませんし、言葉も交わすことも出来なくなります。私たちひとりひとりにとって大事に思っている人が目の前から消えてしまおうなどとは予想だにしなかったことでしょう。
以前教えておりました高校の聖書科の授業で、「あなたがあと半年のいのちしか残されていなかったら、どうしますか?」という作文を生徒たちに書かせたことがありました。何百人の生徒にそのテーマで書いてもらいました。ほとんどの生徒の書いたことはおおよそ2つに分けることができました。「自分の好きなことをする」というのと「親孝行、また家族、他人に何かをしてあげたい」というものでした。その中で一人の生徒の作文を忘れることが出来ません。ここにご紹介したいと思います。
これを読んだ後で、私はこの生徒に手紙を書きました。辛い思い出を思い出させたことを謝り、またきっと友達にも話したことのなかったであろうこのエピソードを教えてくれた感謝の気持ちをしたためました。この作文は正直な気持ちを綴るために名前を書かせなかったのですが、私にはなぜかすぐにこの生徒のことだと分かりました。そして、私自身もその時の彼と同じ年齢のときに父親を亡くしたけれども、母をはじめ多くの人の支えによって今日があることを打ち明けました。この生徒は今や立派な父親になっています。きっと今も彼は亡くなった父親に励まされていると思うのです。またおそらく自分の死について考えたこともない年頃に、病気と自分に残された力とを闘わせた父親に多くのことを教えられているはずです。
人間はいつか身体の死を迎えます。そのような定めの中で神様はイエス・キリストの愛に満ちた生涯とそして十字架にかけられて死んだこと、それから3日目に復活をされたことを通して、私たちが生きている間だけではなく、死んでから後も喜びの中に生きてゆけることが約束されています。人間は死によって何もかもが終わるではないのです! マグダラのマリアの中に主イエスは生き続けたのです。そしてマリアは主イエスに励まし続けられたのです。それと同じように現代に生きている私たちの中にも主イエスは生きておられます。生きている人間の中には、必ず亡くなってこの世を去った人の残したものが生きているのです。そして私たちはイエス・キリストというお方を思い出すたびに神様に結ばれるのです。これが私たちにとっての新しい出会いです。
主イエスはかつてこう言いました。
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。
これ以上下がないほどのどん底に突き落とされたマリアだったから、他の誰よりも先に主イエスの復活の喜びを知ったのでありました。
死というものは確かに誰のもとにもやってきます。人間は死というくらい闇の中に呑み込まれてそれでおしまいのように考えています。しかし、イエス・キリストがそれを超えました。主イエスが一旦死なれて暗闇を経験されて、ふたたびおよみがえりになったのは「上にあるものに心を留め」ておられたからです。それは天の神様と一体であられたということです。私たちも今日から常に上を向いて神様と結ばれて生きて行きましょう。そのことがやがて私たちの復活にもつながっていくのです。