I
昨年12月、中国の武漢で発生した新型コロナ・ウィルス(COVID-19)が、3ヶ月後の現在、世界中で猛威をふるっています。「パンデミック」宣言を出した世界保健機構(WHO)によると、3/15日現在、世界中で15万人以上の感染が確認され、すでに約5,700人が死亡し、感染が確認された国や地域は141に上ります。
亡くなられた方々の魂に平安を、遺族近親の方々に慰めを、ウィルスに罹患された方々には一日も早い回復を、また最前線で戦っている医療従事者の方々に守りを、そして、社会の動きを決定する立場にある人々に知恵と決断力が与えられるよう、心から祈ります。
私たちのコミュニティーも、教会が感染源になることを避けるために、役員たちと複数回の協議を重ね、最終的に3月いっぱいの教会活動をひとまず停止することを決断しました。
いつも当たり前にできていたことが突然できなくなり、たいへん悲しいです。通信のあった会員のお一人は、「私は毎週礼拝に来ることができないのだが、皆さんが教会で祈りを合わせて礼拝を守っていることが、心の大きな支えになっていたことが今よく分かる」と言われました。毎週の礼拝はキリスト教信仰の生命線であり、その停止は大きな打撃です。
II
本日は、教会暦では受難節第3主日に当たります。マルコ福音書の受難物語から、いわゆる「最後の晩餐」の前半をとりあげ、やや広い文脈からお話しします。イエスがエルサレムで過越祭の食事式を行っている最中に、十二人の中から裏切り者が出ることを予言する場面です。
食事式の後半には、いわゆる「聖餐」式の制定場面がありますが、今日はあまり立ち入りません。また、マルコ福音書の伝える最後の晩餐が過越祭の食事式である一方で、ヨハネ福音書の伝える晩餐は明らかにその前日の夜のできごとであり、しかも聖餐の制定でなく、洗足の象徴行為が物語られるという、よく知られた食い違いも脇に置いておきましょう。 むしろ、イエスと弟子たちの姿に注目したいと思います。イエスがエルサレムの神殿指導層のみならず、自らの弟子たちにも見棄てられて死んでゆく一方で、イエスを信じて従ってきたはずの弟子たちは大きな挫折を経験します。両者の関係は明らかに信頼と交流から、裏切りと断絶へと暗転します。
III
受難物語をあえて前半と後半に分け、ひとまずその前半が「導入」、「晩餐」、そして「捕縛」の合計3場面から成っていると見ることにします(マルコ14,1-52)。
その荒筋は、「導入」場面では、まず神殿指導層によるイエスの殺害計画(1-2節)が、続いてベタニア村での女性支援者によるイエスの塗油(3-9節)と、弟子ユダの裏切り計画(10-11節)が語られます。敵対者は一枚岩ですが、イエスの弟子たちは分裂しています。
続く「晩餐」場面では、イエスと弟子たちの関係が前面に出ます。イエスの指示に従って「準備」がなされ(12-16節)、ある弟子の「裏切り」が予告され(17-21節)、そして聖餐式が制定されて弟子たちに託されます(22-25節)。
そして最後の「捕縛」場面では、弟子たちと並んでイエスの敵対者たちが再び登場します。まずイエスは、筆頭弟子であるペトロの裏切りを予告します(26-31節)。続いて、彼はゲッセマネの園庭に少数の弟子たちを伴って行き、そこで祈ります(32-42節)。そしてユダが連れてきた神殿警備員たちにイエスは引き渡され、弟子たちは皆が逃亡します(43-52節)。
IV
では、三つの場面に描き出された「イエス」の姿を、もう少し詳しく見てみましょう。
「導入」場面のイエスは、神殿指導層の殺害計画の対象です。おそらく勝ち目はありません。果たせるかな塗油エピソードの中で、イエスは女性のふるまいを自分の「埋葬の準備」であると述べます(14,8)。他方で、十二人の一人であるユダは、敵対者たちとつなぎをとり、イエスを「引き渡す」チャンスを待ちます(14,11)。――おそらく、より古い受難伝承では、敵対者によるイエス殺害計画と、弟子集団に内通者がいることだけが語られていたでしょう。これに、イエスの支援者に属する女性のエピソードが付加され、イエスの死は「世界中で福音が宣教される」(14,9)ための前提として、新しく意味づけられています。
続く「晩餐」場面では、イエスのふるまいは積極的です。まず弟子たちに過越祭の食事式の準備を予言のかたちで命じ、それが予言どおりに実現します(16節)。続いてイエスは暗黙裡にユダを指しつつ、彼の裏切りを予言します、しかも「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節、新共同訳)という激しい言葉とともに。聖餐式の場面でも、イエスは食事式のホストの役割を演じつつ、その場を一貫してリードします。
もともと晩餐場面の中心モティーフは「弟子の裏切り」です。しかし現在ある受難物語では、これに聖餐伝承が付加されています。イエスの死はたんに裏切りの結果でなく、むしろ救いをもたらす積極的なできごと、すなわち「契約の(ための)私の血、多くの人のために流される(それ)」(24節)であったと解釈されているわけです。
最後の「捕縛」場面では、イエスは筆頭弟子のペトロ、神、そして神殿勢力とそれぞれ対決し、そのつどある種の制限を受けます。まずイエスはペトロの離反を予言しますが、ペトロから「わたしはつまずきません」と反論されます。ゲッセマネの場面は、弟子の裏切りに対してイエスがどのように自覚的に反応したかを示すために、おそらく後から挿入されています。そこでイエスは、初めは「この杯を私から取りのけて下さい」(36節)と神に嘆願しますが、最後には「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(同節)と自らの運命を神に委ねます。捕縛の場面で、イエスは神殿警備隊を、「(君たちは)まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか」(48節)と批判しますが、最終的に彼らに引き渡されます。
こうして敵対者によるイエス殺害計画、これに内通する弟子によるイエスの「引き渡し」の計画はその通りに実行されます。しかし殺害と裏切りの陰にあっても、イエスは「福音」宣教を予告し、「多くの人のため」の救いを告げ、自分の願いよりも「神の御心」に従う者として提示されます。
死に向かって歩むイエスの悲惨な道筋に、かすかな光がほの見えています。この光は復活信仰から与えられました。それは、壊滅的なウィルスの蔓延にもいつか終わりがあること、それがもたらす死も、神の前にあって最後の言葉でないことを示唆します。
V
次に「弟子たち」の姿を見てみましょう。イエスの中核的な弟子集団の中に、敵に内通したユダがいたことは、おそらく史実でしょう。もっとも金銭授受の約束(14,10-11)などの動機づけは後代の脚色です。真の動機について、古今東西の文学を含めて多様な見解がありますが、本当のところはよく分かりません。
晩餐場面で「アーメン、君たちに私は言う、君たちの一人が私を引き渡すであろう、私と共に食べている者が」とイエスが告げると、弟子たちは「悲しんで、一人また一人が『まさか私が』とイエスに言い始めた」とあります(18-19節)。彼らは揺らいでいます。
果たせるかな、新しく持ち込まれたゲッセマネのエピソードで、イエスが苦悶の祈りを捧げている最中に、三人の弟子たちは不甲斐なくも「眠っていた」と三度も言われます(37.40-41節)。イエスに起ころうとしていることを、彼らは聞いても理解しません。
捕縛場面で、イエスから離反を予言されたペトロは「決してあなたを否みません」(31節)と強弁し、他の弟子たちも同じように言い張りますが、最終的には「彼らはイエスを見棄てて全員が逃げた」(50節)とあります。さらに受難物語の後半で、筆頭弟子ペトロが、大祭司宅の庭で問い詰められるとあっさりイエスを否定し、最後に「泣き崩れた」(72節)と語られています。
こうして、敵対者の殺意と一人の弟子による裏切りの前で、他の弟子たちは無理解かつ無力です。しかし、その中にあってもイエスは、ベタニアの女性支援者のふるまいを「私によいことをした」(6節)と評価し、十二人にパンと杯を「与え」(22節)、彼らの脱落を旧約預言の成就と説明し(27節)、「誘惑に陥らぬよう祈る」よう励まし(38節)、すべては「聖書の言葉が成就するため」(49節)であると宣言します。
弟子たちにとってイエスの受難は、たんに外部から降りかかった不運というより、イエスから多くのものを与えられたにもかかわらず生じた、彼らの内面的な自覚における大きな挫折です。
おそらく私たちもまた、苦境の中にある人々の苦しみを理解せず、大切な人を裏切り、偉そうなことを言うだけで肝心なときに逃げ出し、判断を誤って挫折し、泣き崩れる存在です。マスクの高額転売、トイレットペーパーその他の買い占めなど、今回のウィルス騒ぎは私たちの弱い面を浮き彫りにします。それでも、私たちに希望を与えるのは、再び復活信仰です。捕縛場面でペトロの離反を予言するイエスは、弟子たちに向かって「私は起こされた後、君たちに先立ってガリラヤに行く」(28節、「君たちをガリラヤへと先導する」とも訳せます)と言うからです。
VI
最後に、本日の聖書箇所の最後のイエスの一言(21節)について考えましょう。すなわち、
多くの方が、「いくらユダのことが憎いからと言って、この言い方はひどすぎる」とお感じになるのではないでしょうか。ギリシア語原文を眺めていて、興味深いことに気づきました。直訳するとこうなります。
まず通常「裏切る」と訳される動詞の原義は「引き渡す」で、ここではイエスを官憲の手に渡すことを意味します。次に「人の子」は、話者イエス自身を指す婉曲表現と理解しましょう。また、新共同訳が「不幸だ」と訳す語は、ご本人がそう感じているという意味でなく、「禍いなり」という外部からの評価です(「かの人間に、禍いあれ」と訳すことも可能です)。つまり〈イエスを官憲に引き渡す者は、禍なるかな〉――この発言は文脈上、ユダ個人に関するものです。ユダ自身を通して、彼の身に、イエスの引き渡しという「悪」が生じるのです。
問題は後半です。「彼にとって」の「彼」と、「生まれなければよかった」とされる「かの人間」とはいったい誰のことでしょうか? キリスト教会は伝統的に、両方ともユダのことだと理解し、新共同訳のように訳して、イエスがユダの存在そのものを否定し、呪ったと理解してきました。他方で、仮に「彼」がイエス、「かの人間」がユダであると振り分けてみても、〈イエスにとって、彼を裏切るユダが生まれなかったらよかったのに〉という意味になり、内容的に変わりません。
しかし逆に「彼」がユダ、他方で「かの人間」がイエスであるととれば、どうなるでしょう。〈裏切り者ユダにとって、イエスなど生まれなければよかったのに〉と読めると思います。すると例えば、〈私が生まれなければ、君は私と出会うこともなく、ましてや裏切りの罪など犯さずにすんだものを〉という意味合いになり、発言の全体は、ユダへの憎悪ないし呪いというより、むしろ哀れみの言葉に、そしてユダに――そして私たちに――罪の自覚を促す言葉になるかもしれません。
キリスト教会は、信頼と交流を最も大切なこととして重んじるコミュニティーです。感染性の強いウィルスの世界的蔓延は、私たちの交流を著しく阻害し、経済的な大打撃を与えてフリーランスの人たちから突然に収入の途を奪い、物品の買い占めや、アジア系住民や旅行者への差別行動へと私たちを走らせました。ウィルスそのものは自然生物的な現象ですが、それは私たちに「死」を、また私たちの相互信頼に破壊を、そして私たちを通して「悪」をもたらします。
復活信仰を共有する私たちは、「私たちは攻撃を受けている」「自分たちをこそ私たちは守るべきだ(他のやつらではない)」「よそ者に信頼する者たちは私たちを危険にさらしている」という思考のスパイラル――これは、まさに戦争を生み出すロジックです!――から逃れたい。そのためにこそ、自らの内にある「悪」を認め、相互の信頼と尊重をたいせつにしながら、「悪より救い出したまえ」と共に祈りたいと願います。