今週の水曜日から受難節・レントに入ります。今年は4月11日までの日曜日を除く40日間、イエスさまの十字架でのみ苦しみを憶えながら、私たちの信仰やあり方を糾明するときでもあります。私が信仰を育てられましたいくつかの教会ではこの時に何か自分の好きなものを断つというようなことをしたり、毎日少しずつ生活の中で我慢をしたり、犠牲を払って「克己献金」をしたりとそのようなことが思い出されます。カトリック教会では現在では灰の水曜日とイエスさまが十字架にお架かりになった受難日(聖金曜日)には断食をするなど、さまざまな教会の伝統の中で編み出されてきた信仰の習慣がありますが、受難節で大切なのは、「心を神に(キリストに)向ける」ということです。そして教会では伝統的に受難節には「主の変容」の箇所が礼拝で朗読されます。私はここを読むたびに不思議な気持ちがしてきます。現実離れしている、というか、何となく理解しがたい記事です。おとぎ話のような印象さえ受けるのです。今日はなぜ受難節の聖書日課にこの記事が読まれるのかを考えながら、読み進めて行くことにしましょう。高い山の上でのイエスさまの栄光の姿は、イエスさまが受難と死を通って受けられる栄光の姿が前もって現されたのだと考えられてきました。今日の箇所の中には、イエスさまの受難・死・復活にあずかる、という受難節の大切なテーマが示されています。
イエスさまはご自身の弟子たちの中から、特に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を伴って、高い山に登られます。そして今日の箇所1節は「六日の後(のち)」という言葉で始められます。この言葉は前の記事とこの記事とをつなぐような言葉です。今日の記事の直前、すなわち16章の21〜28節に記されてありますのは、ペトロの信仰告白とイエスさまがご自身で明らかにされた十字架の死と復活の予告です。16章21節は「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります。イエスさまの変容は、この受難予告と大いに関連があります。またこのことはここにいた3人の弟子たちにとっては初めて聞かされたことでもありました(ちなみにこのペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人は、こののちゲツセマネで祈られるイエスさまのそばにいた3人でもありました)。
十字架を前にして恐れを抱きながらも、神さまのみ心のままに生きようと決心されたイエスさまは、今度は山上で、2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあります。これはこの時イエスさまが少しだけ復活のみ姿を見せてくださった出来事だとも言われています。聖書で太陽とは神さまを表すシンボルであり、またそれは〈いのち〉を表します。イエスさまの変容の出来事は、イエスさまご自身が神であるということを示された出来事でした。また9節には「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」とあります。この出来事は、イエスさまは苦難を受けて十字架の死に向かうけれども、三日目に復活させられるときには栄光に満ちた姿で現れることを弟子たちに予告し、イエスさまに従うように弟子たちを励ますための出来事でした。
このように何にも汚されることなく、白く輝いているということ自体、私たち人間の世界からはかけ離れていることです。私たちの生きている世界というのは、むしろここにいた3人の弟子たちが生きていた同じ世界ですが、この出来事とは対照的に、人間の罪で汚され、暗く、希望を持つことなどできない世界です。ですから6節に見逃してはいけない言葉が記されます。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」という言葉です。しかし、そこにイエスさまの憐れみ、優しさがにじみ出るようなことが起こります。続く7節で「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない』」。あなたたちもこの栄光に浴することができるのです、と言いながら、しかし言葉をかけるだけではありません。実際に弟子たちに手を触れて、イエスさまは「現実を直視して歩きなさい」と教えるのです。弟子たちがイエスさまを見上げた時、イエスさまは光り輝くお姿ではありませんでした。現実の、いつも通りのお姿でした。
前後しますが、5節では雲の中から声が聞こえます。これはもちろん神さまの声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。このみ言葉はイエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられた時に天から聞こえた声と同じです(マタイ3:17)。神さまは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。今日の礼拝への招きの言葉は詩編の124編「わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある」(同8節)でした。宗教改革者カルヴァンは、礼拝の最初にはこの詩編124編8節を招詞として、すべての創造者である神をたたえ、「これに聞く」姿勢をもっていました。今日の記事では神さまが創造されたものの一つとして「雲」が出てきます。「雲」は神さまがそこにおられることの象徴です。雲は太陽や月や星の光を覆い隠してしまいますが、いにしえの人たちは雲の向こうに神さま(希望)があると考えたのです。目に見えない神さまがそこにいてくださると考えられるようになりました。出エジプトをしたイスラエルの民が、40年荒野を旅しましたが、そのときにも雲は神さまが民と共にいてくださることの象徴となりました。今日の出エジプト記24章18節のところにもモーセが雲の中に自ら進んで行く様子が記されています。今日の箇所から私たちが聴くべきことは2つあります。
(1) 神さまはいついかなる時にも私たちの「希望」であるということです。
不安があり、先が見えない状態の中にも神さまは私たちを導いてくださいます。
(2) 神さまは私たちがそこに留まることを願っているのではなく、そこから立ち上がってそれぞれの〈場所〉へと進んでいくことを願っています。
イエスさまが「起きなさい。恐れることはない。」と言われた言葉を心に刻みましょう。
イエスさまご自身もまたこの時、山を下らなければならなったのです。イエスさまを待ち受けている人々、そしてその先には十字架の苦難も待ち受けていました。
苦難をお受けになるイエスさまに従っていくこともまた、今日の箇所が私たちに示していることです。しかし、実際には、ここに立ち会っていた弟子たちも美しく輝くイエスさまの栄光を見たのに、イエスさまの最期まで従っていくことができませんでした。イエスさまが捕らえられたときにこの3人も逃げてしまったのです。私たちはどうでしょうか。イエスさまを棄てずに従ってついていけるという確信は誰も抱けないかもしれません。それが私たちの弱さです。神さまなしに生きていくことはできません。神さまの力で守られながら、私たちは神さまと結ばれて生きるときに初めて可能となるのです。
イエスさまの変容の出来事にはさまざまな解釈があり、今日お話ししたこともその一つです。しかし、私たちがこの箇所を読んで、黙想するときにさまざまな思いをめぐらせていくことも、神さまが私たちに求められていることと信じます。もしこの箇所に固定された解釈やメッセージなどがあったとすれば私たちはそこでこの箇所に一層の興味を持ったり、自分の心や頭で受け止め、考えることをやめてしまうかもしれません。この出来事と私たちはこれからも向き合い、考えることによって私たちの信仰が養われ続けていくことでしょう。もう少しわかりやすく言えば、この箇所を上からも下からも、右からも左からも、前からも後ろからも見続けて私たちの信仰が養われていくことが大切です。イエスさまの栄光をたたえながら、今年の受難節の扉を開きましょう。