2020.02.09

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「誓いによらず良心に聴く」(山上の垂訓・第6回講解説教)

陶山義雄

イザヤ書55, 8-13マタイによる福音書 5,33-37

 「山上の垂訓」講解説教も第6回目を迎えました。第一回は「幸いなるかな」で始まる7つの祝福を通して全ての人を山上の説教へ招き入れる呼びかけがでした。第二回は主の教えに聴き従う人はこの世にあって、どう云う人々であるのか、即ち、「地の塩・世の光」となる存在であることが、高らかに語られました。そして第三回からはユダヤ教と比較して、イエスの教えと正しさ(つまり、正義)が、どのようなものであるかを旧律法と比べながら紹介を始めました。今日はこの文脈の中で、その4番目、「誓い」、「誓約」を巡ってユダヤ教とイエスの教えを対比させながら、福音の神髄を説く場面に私達は今、臨んでいます。

 冒頭に掲げられた昔の人の言い伝えである旧律法について、このテキストと全く同じ文書は旧約聖書や他のユダヤ文典の中に存在しておりません。この文書には二つの内容が一つになっているからです。「偽りの誓いを立てるな」と云う命題と後半にある「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」(5:33)は、元来別の所に記されています。前半の言葉は多分、皆さんがお分りの通りモーセの十戒・第9番目の戒めから来ています(出エジプト記20:16申命記5:20):「あなたは隣人に対して偽証しては(偽り誓っては)ならない。」

 テキスト後半の「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」 この言葉と同じ文書はユダヤの文書から、そのままの形では見出すことが出来ないのですが、良く似た内容の言葉は詩編50編14節や、民数記30章3節、それに申命記23章22〜24節に見出せます。:「人が主に請願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて口にしたとおり、実行しなければならない。」(民数記30:3

 ここでは誓いについて二つの慣わしが問題にされています。それは必ずしもユダヤ教についてばかりでなく、私達の日常生活についても、良くある誓いの形態です。1つは人と人との間で交わす約束や誓いがあります。社会生活を円滑に営むための方法として、私達はお互いに約束を交わします。約束をしておきながら、それを守らなかったり、違反をすれば、信 頼を失い、人間関係に破綻をきたします、それが、ある意味で破った者に与えられる制裁であり、裁きの1つになっています。十戒の第9戒は、そう言うことを語っています。英語ではこの種類の誓いをOath と呼んでいます。ユダヤ文典ではShebuoth と呼んでいます。大統領や国の、また学校や団体、更には企業同士で交わされる約束や宣誓がこれに当たります。

 誓いについて、今一つの形態は、ある組織や集団の権威にかけて誓うもので、英語ではこれを Vow , ユダヤ文典では Nedarium と名付けている、違反すれば当然、その権威から処罰を受ける誓約であります。前者の誓いを確実にさせるために、誓いを立てる者と受ける者や集団が、共に信頼を寄せている神などを引き合いに出して誓うのがVow, やNedarium で、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」とは、このような誓いを指しています。ギリシャ語のテキストでも前者は έυχη また、後者は όρκος が使われています。ユーケーは「祈り」と云う言葉とも繋がっているように、人と人との間で交わす善意の繋がりから来る願いを思わせるのに対して、後者のホルコスは絶対者や権威にかけて誓いを立てるので、誓う側にそれなりの覚悟が求められています。日本語に、この違いを移し替える言葉は無いように思います。つまり、日本では概して無宗教の社会ですから、絶対者を間に置いた誓いを見出すことは難しいからかも知れません。

 どちらの誓いであるにせよ、イエスはここで「一切誓うな」、「誓いを立ててはならない」(5:34)と云っておられます。マタイ記者はその後で、天にかけて誓うこと、地にかけて誓うこと、またエルサレムに向かって(かけて)誓うこと、更に、自分の頭にかけて誓うことを戒める、挿入文を置いた後、再度、イエスのこう言う言葉をもって締めくくっています:「あなたがたは『然り、然り』、『否、否』と云いなさい。それ以上のことは悪い者から出るのである。」(私訳:それ以上は悪から生じるのである。)  山上の垂訓ではマタイ記者とイエスの主張が激しく衝突しているように見受けます。何故ならば、「一切誓うな、然り、然り、否、否として、それ以上に何も語ってはならない」とするイエスの主張がありながら、その前の所でマタイが加えた独自の言葉は、「然り、然り、否、否」以上のことを語っているからです。加えて、これらの言葉は、まるで、誓いや、誓うことを、むしろ重視しているような印象に聞こえないでしょうか。

 「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座であるから。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台であるから。 エルサレムに向かって誓ってはならない。そこは大王の都であるから。また、自分の頭に向かって同じことをしては(誓っては)ならない。あなたは髪の毛1本さえ、白くも黒くも出来ないのだから。」(同5:34〜36)とするイエスの教えに対して、マタイ記者は自分たちの宗団に、例えば、入団する際には、他の誓いは一切してはならないけれども、自分の宗教、自分の宗団について入団をする際の誓いならば、誓っても良いとする姿勢が見受けられるように思います。これはイエスと同時代に活躍したクムラン宗団の人たちと同じ姿勢であることが分かります。彼らも一切、誓ってはならないとしながら、ただし、クムランの宗団に加わる際になされる誓いを最も重視していた人々でした。死海写本・宗規要覧后8〜10にはこのように記されています:

「共同体の会議に入る者は一人一人、志願者全員の前で神の契約に入る。・・・また、神の御心に従って歩むため、共同体に志願した人々にモーセ律法によって啓示されたすべてのことに従いつつ、すべて彼が命じたように、全心全霊をもってモーセ律法に帰ることを物断ちの誓いによって誓う。」

 マタイ記者はクムラン教団が依拠するモーセ律法に勝る新律法として山上の説教集を編纂している訳ですが、クムラン宗団に対抗するような仕方で、他の誓いは一切空しいけれど、イエスの教えを新律法として、これに誓うこと、そのことのために他の誓いを一切、否定しているように思います。しかしイエスはそうではなかた。その証拠に、同じように見える結びの言葉「然り、然り、否、否」をヤコブの手紙5章12節と比較すると良く分かります。ヤコブの手紙にもイエスによるこの言葉が残されていて、同じように見える言葉でありながら、マタイ記者が微妙に変えている所に注目しなければなりません。ヤコブの手紙ではそれぞれ最初の言葉である「然り」、と「否」の前に定冠詞がついています。マタイのように「然り、然り」「否、否」のように、同じ言葉を二度繰り返すのではなく、「然りを然りとし」、「否を否とせよ」と云う意味になります。自分で然りと判断したならば、言葉だけでなく、本当に「然り」を実行に移さなければならない。 また、「否」と判断したならば、その言葉を実践に移して働かなければならない、と云う意味になります。新共同訳聖書ではヤコブの手紙についても、マタイ福音書についても、この違いをはっきりと訳しています。

 ヤコブの手紙では明確に一切、誓うことを禁じている文脈のなかで、イエスの言葉が載せられています。すなわち、(ヤコブ書5:12)「わたしの兄弟たち、何よりもまず(何があっても)、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、その他どんな誓い方によってであろうと、裁きを受けないようにするために、あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい。」

マタイ福音書5章34節以下:あなたがたは「一切誓いを立ててはならない。天にかけても、地にかけても、エルサレムに向かっても、また、自分の頭にかけても誓ってはならない。あなたがたは、ただ、『然り、然り』、『否、否』と誓いなさい。

 一切誓うな、と云うイエスの言葉をマタイは、教会で行っている誓いの儀礼にそって、「然り、然り」、「否、否」と云うように勧めています。誓いがどんなに大切であるかをマタイは、「一切誓うな」、と「然り、然り、否、否」の間に、まるで、間奏曲のように、「神の玉座」、「神の足台」、「大王の都」、「髪の毛の比喩」をもって、むしろ誓うのは恐れ大いこととして描き挙げた上、その恐れ大い思いもって、誓いについて、肯定の場合も、否定の場合も2回繰り返して誓うように勧めているのです。

 ユダヤ教ラビの教えによると「神は誓う必要はないが、人間には真理がないから、誓う場合には同じ言葉を二回繰り返して言いなさい」とあります。「然り、然り、否、否」はそこから生まれており、マタイ記者はイエスの言葉をそのように受け止めて、キリスト教ラビの座に祭り上げているのです。誓いの中で、「エルサレムに向かって」という言葉は誓いのなかでも更に、エルサレムを特に重視するような視線をもち、恐れ多い事として一段高い位置に置いているのも、元ユダヤ教ラビの系列に居たマタイ記者の姿が現れています。イエスがこのような言葉を発する筈もありません。エルサレムはイエスを死へと追いやった地であり、その権威はイエスにとって批判の対象以外にはなかったからです。

 では、イエスが「一切誓うな」と云われた、その真意はどこにあったのでしょうか。「誓い」とは人間の作り上げた権威のもとに従うような関係の中で守られているものです。そうした権威はしばしば、拘束力をもちながら、特定の支配者や社会の有力者が民衆を拘束したり縛り上げたりする道具として使われています。イエス時代のユダヤにおいてもそうでした。民衆の側に立ち、弱者の側に立ってお働きになったイエスは、誓いを退け、その都度、その場にあって「然りを然り」とし、「否を否」として生きることを勧めておられたのです。神に造られた個人として、自らの内に与えられている良心を神の言葉として聴き、それに従って行動をとるように勧めておられます。忙しくお働きになる中でも、人々を離れて一人静かに祈っておられたことが、福音書では随所に記されておりますが、これこそ、ご自身が祈りの中で神の御心を伺い、御心に委ねて物事に決断をもって臨まれたことが良く分かります。それは、既存の言い伝えや、約束事によらず、ご自身が神との交わりの中で聴き取った良心の声(Vox Dei:天の声)であったと思います。そして、私達にも、物事の判断の規準が求められる時、この世の権威に寄り添うのではなく、神との祈りの中で、良心の声・天の声に聴き従う場合があっても不思議ではありません。

 宗教改革と云えば、私達は先ず、マルテイン・ルターを思い浮かべます。彼も教会の腐敗した姿を目の当たりにして、神に祈り、この世の権威や慣わしに誓いを立てて従うのではなく、良心の声に聴き従い、歴史を切り開いた人でした。ルターが1521年4月17日、ウォルムスの国会に呼び出され、自作の書物と意見書を撤回するように教皇(レオ10世)と国王(カール5世)から迫られた時、ルターは、むしろ良心の声に聴き従う途を選んで、こう語ったことが歴史を変える転換点になりました。:「聖書によって誤りを証明されない限り、私の良心は神の御言葉に捕らえられており、撤回できませんし、撤回するつもりもありません。」そしてこの言葉に続いてルターのウォルムス国会における有名な言葉が続きます:

「私はここに立っています。他の何者でもありません。神よ、助けて下さい。アーメン Hier stehe ich, Ich bin nicht anders. Gott, hilf mir. Amen」

 私達はルターの業績をどれほど高く評価し、その恩恵に浴しているかを強調しても、し過ぎることはありませんが、同時代、もしくはその先き駆けとなった出来事と先駆者を忘れてはなりません。イギリスにはジョン・ウィクリフ(1130頃〜84)がおり、フランスにはピエール・ヴァルド―(〜1178)が、ほぼ同じころ、聖書の自国語への翻訳を行い、(ローマ・カトリック教会への批判を行い、)貧しい人々と共に歩む教会改革を行いました。聖書に倣って、一切誓うことを禁じて、教会や支配者などの権力側に逮捕されても、入団や誓いの宗団に入っていないので、つまり、個人として、その良心に従って行動をとっているので、権力者側を困惑させた有様が、チョーサのカンタベリー物語にも出ています。ウイクリフに先導された乞食宣教者たちはローラーズ(Lollards)と呼ばれておりました。Lollとは英語で「口ごもる」と云う意味の言葉で、口伝えにウイクリフが訳した聖書の言葉を人々に語り、権力者に逮捕された時には、黙秘を守り、良心に従い、神に仕え、聖書を行動の規準に据えて働いた人々でした。ローラーズや、ヴァルド―派の活躍が、やがて100年経ってルターにうけつがれていることを私達は確認しなければなりません。「一切誓うな。神の声に聴け」と云うイエスの言葉は今も生きています。

 マタイ記者と同じように、世々の教会もまた、誓いを宗団の組織を守るために採用しています。教会の洗礼式においても誓いを神と会衆の前で信仰告白として言い表しています。また、私達が結婚に際して誓いを立てることも、同じように為されています。つまり、私達が組織を維持するには規則を持ち、それに従うという誓約をかわすことは不可欠のようです。ですから、マタイ記者がイエスの言葉を現況に合わせて、入団の誓いと誓い方以外は、一切誓いを禁止するような言葉に、イエスの教えを改めるのはやむを得ない所であるかも知れません。しかし、基本を忘れてはなりません。どのような集団であれ、家族も、教会も、社会も、国家でも、その集団の根底には、神の御心を伺い、それに沿った仕方で集団が営まれているか否かが大切な要件です。ですから、イエスの主張は最優先の課題となる場合があることを、私達は心して置かなければなりません。神の声を聴き、良心の目覚めをもって改革にあたった人々が歴史を変えて来た事実を忘れてはなりません。

 私は「白バラの祈り」に、いたく感動したことを覚えています。1943年2月13日、スターリングラードの敗北で殆どの兵士がソ連の捕虜になるなかで、僅かに逃げ延びて、ミュンヘン大学の医学部に戻って来た医学生を通して、悲惨な戦争を一日でも早く止めなければ、民族の滅亡に民衆も巻きもまれる危機を避けるために、医学生のハンス・ショルと妹のゾフィー・ショルは、市内やキャンパスでビラを配布し始めます。3月18日の第6版のビラをキャンパス内で配布している時、この兄弟は捉えられ、わずか5日後には処刑されてしまいます。妹のゾフィーは当初、兄について従っていたような存在でしたが、審問官とのやり取りの中で、良心の目覚めを深めて行く有様が、感動を呼び覚ましてくれるのです。獄中でも付けていた日記から、祈りの言葉が残されています。最後の3日間に、初めて祈る言葉を残し、翌日、格子窓の空を眺めながら天に向かって祈る言葉、そして最後は処刑直前、牧師が覚えていたゾフィー・最後の祈りとして残されています。いずれも深い感動を覚えます:

  1. 神様、私はあなたに向かって口ごもる事しかできません。あなたには、心を差し出すことしかできません。あなたは私達を、あなたに仕える者として創造されました。そして、あなたの内に安らぎを見出すまで、私達の心が休まることはありません。
  2. 神様、心の底からお願いします。私はあなたに呼びかけます。あなたのことは何も知りませんが、「あなた」と呼ばせて頂きます。私が分かっていることは、あなたの中にしか私の救いは存在しない、と云うことです。どうか私を見捨てないで下さい。我が栄光の父よ。
  3. わが神よ、栄光に輝く父よ、あなたの蒔いた種が無駄にならないように、この足元を豊かな大地へと変えて下さい。創造主に会うことを願わない人々の胸にも、少なくともあなたへの憧れを育んでください。

 創造主によって、それぞれの心に与えられている良心とその声に聴くと云うことがどのようなものであるのか、ゾフィーの祈りを通して私達にも語り掛けているようです。「然りを然り」とし、「否を否」とする、神の声、良心を研ぎ澄ますために、私達は今、呼び出されているのです。折しも今日は受難節前第三主日です。4月10日の受苦日と12日の復活節に至るまで、主のご受難を想いつつ、御足の跡を辿りながら日々を過ごして参りましょう。

祈祷
あなたを信じ、御名を賛美する群れにあって、私達が捧げるこの礼拝が、どうか、あなたの御心に叶い、あなたに喜ばれ、世の暗闇を光へと導く力を証することが出来ますように、それぞれの働きをあなたが祝し、支え、導いて下さい。


 
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