I
私たちは、ピンチのときに外に向かってSOSを発信し、助けを求めるのが苦手です。「自分のことは自分でしなさい」と言われて育ったからです。他人を頼ってばかりいると「みっともない」と言われます。それでも、例えば年齢とともに体力は衰えます。その場合にも、労働としてのケアに対価を支払うのは、保険を使うとはいえ、やっぱり自分です。だから、いくら貯蓄があるかが気になります。助けを求めてよい範囲も、たいてい家族や親族などの狭い範囲に限られます。あるいは「善きサマリア人」の譬え(ルカ10,30以下)が示すように、異民族に属する人が境を超えて怪我人を助けることは、通常はありません。
それでも福音書には、外国人がイエスに病気治癒を求める物語が二つあります。シリア・フェニキア人の女性が娘を癒してもらう物語、そして今日のテクストであるカファルナウムの百人隊長の子ども、ないし奴隷の癒しです。
II
百人隊長の物語は、先ほど朗読したマタイ福音書以外に、ルカ福音書とヨハネ福音書に伝えられています。ルカ福音書では、百人隊長はユダヤ人を愛し、自ら資金を提供して会堂まで建てた、いわゆる「神恐れ人」であったと言われます(ルカ7,1以下)。またルカ福音書では、「東や西から」の言葉はまったく別の個所に現れます(ルカ13,29-30)。他方で、ヨハネ福音書の百人隊長の物語には、「私も権威の下にある者ですが」云々の発言がありません(ヨハネ4,46以下)。
マタイとルカはそれぞれの福音書を書くとき、マルコ福音書と並んで、主としてイエスの語録を集めた文書資料――業界用語で「Q文書」と呼ばれます――を利用しました。百人隊長の物語と「東や西から」の言葉はともにこの資料に由来しており、もともとは別のものだったのを、マタイがここで「イスラエル」という主題を介して組み合わせているのです。
新共同訳の翻訳について、二つのことを申します。まず「私の僕が中風で寝込んで」(5節)とある「僕」と訳された語の原義は、「子ども」です(ギリシア語「パイス」)。この語は確かに「小姓」の意味もありますし、ルカには「奴隷」(ルカ7,2。新共同訳はは「部下」と意訳)とあります。しかしマタイは前後の文脈でこの語を「子ども」の意味で使っており、ここでも「子ども」の可能性が高いです。もうひとつ、新共同訳が「わたしが行っていやしてあげよう」と訳す文は(7節)、疑問文にとって「この私が来て、彼を癒すのか?」と読むのが適切でしょう。つまりイエスは、異民族を治癒するのをいったんは拒否しているのです。
III
さて、私たちの治癒物語は、「言葉」による遠隔操作で癒すのが特徴です。このことは、イエスがシリア・フェニキア人女性の娘を癒すときと同様です(マタイ15,21以下)。ユダヤ人が異邦人に直接触ることは憚られるからです。
先ほどイエスが百人隊長の願いを、「この私が来て、彼を癒すのか?」と言っていったん拒否したと読むのがよいだろうと申しましたが、このことは、マタイのイエスがシリア・フェニキア人の女性の願いを、「私はイスラエルの失われた羊たちのもとにしか派遣されていない」(マタイ15,24)と言って斥けるのと同様です。
それでも百人隊長は、イエスに「主よ」と二度も呼びかけて助けを求めます。「この私もまた指揮権の下にある人間であり」云々という彼の発言は、イエスの指揮権は、自分がもっているものよりもはるかに偉大だという意味でしょう。この発言を聞いたイエスは、追従者たちに「アーメン、君たちに言う、誰一人としてこれほどの信頼を、イスラエルの中に私は見出さなかった」と称賛します。子どもの癒しは、百人隊長によるイエスへの「信頼」を介して、民族の境を超えて生じました。
イエスの治癒奇跡の物語に、「君の信が君を救った」という発言がたびたび出るのをご存じでしょう。癒される人の「信」を治癒の結果でなく、その出発点とする発言です。通常であれば、生じた奇跡への反応として、当事者その他の人々の間に、神ないし奇跡行為者への信心や信仰が生まれます。これに対して「君の信が君を救った」とは、奇跡行為者イエスの霊能力ではなく、被治癒者が神に寄せた積極的な信頼が奇跡の前提であるとします。こうした奇跡理解は古代に類例がありません。現在あるたくさんの典拠の一部はあとからの付け足しでしょうが、この理解そのものはイエスに遡ると思います。
IV
こうして、外部に助けを求めるのはよいことなのです。
先週19日の特別講演会で福嶋揚先生は、国や地方自治体が機能停止に追い込まれるほどの大災害が生じたら、宗教や人種や社会身分を超えて、その人が暮らしている地域社会で助け合って生き延びるしかなく、平時からそうしたつながりを作っておくのが大切だと言われました。本当にそう思います。私たちの教会員の中には、年齢を問わず、単身で生活しておられる方々がおられます。交通機関が麻痺しているとき、牧師や教会員がそうした方々のもとに駆けつけることはできません。
「君の信が君を救う」というイエスの発言は、「他人に助けられる」のを互いによしとすることを含んでいます。
V
福音書記者マタイは、「これほどの信頼を、イスラエルの中に私は見出さなかった」というイエスの発言につなげて、イスラエルに対する警告の言葉を挿入します。もともとは、およそ以下のような言葉であったと思われます。
多くの研究者が、この言葉はイエスに遡ると見ています。そのさい「横たわる」とは、当時の人々が正式な食事式では、寝椅子に半身に横になって食事した習慣を受けた表現です。アブラハムその他の父祖たちは、宴のメインホストです。祝宴としての「神の王国」という理解は、ユダヤ教の伝統に由来します。
神が究極的な救いの実現として、エルサレムで祝宴を開き、そこに「諸国民すべて」が招かれ、そのとき「己が民の汚名」つまり国家滅亡という過去は拭いさられ、さらには「死」そのものが取り除かれます。
それでもイエスとの微妙な差異があります。第一に、イエスにはエルサレム中心主義がありません。彼が実践した、「神の王国」の前夜祭としての交わりの食卓は、ガリラヤの田舎で生じます。第二に、イスラエル民族優先という伝統的な順序が、イエスにあっては逆転しています。「東から西から」来て宴に横たわるのは、本国に帰還する離散(ディアスポラ)のユダヤ人ではなく、「諸国民すべて」つまり異邦人です。他方、「王国の息子たち」つまり現在のイスラエルの権利継承者たちは「外の闇」へと投げ出されます。そして第三に、イザヤ書の「諸国民すべてを覆っている顔覆い」が律法への無知であるなら、それを神が「取り除く」とは、異教徒たちがユダヤ教律法に従って生きるようになる、という意味かも知れません。しかしイエスの発言に、律法遵守のモティーフはありません。
VI
こうして「東から西から来る」異邦人を含む、万人への福音は〈信頼をもってただで受けとる〉ことのみがふさわしいものです。この福音にとって、神殿都市エルサレムというパワースポットも、イスラエル民族に属しているという宗教的な既得権益も、また律法という文化規範の伝統も決定的でありません。
このことを現代のキリスト教会に当てはめると、どうなるでしょうか? もしかすると、次のように理解してよいかもしれません――すなわち神は、キリスト教会以外の場所を通しても働く。その救いは、キリスト教徒以外にも及ぶ。権利継承者を自認するキリスト教徒は、自らを救いから締め出してしまう危険性がある。さらに、伝統化されたキリスト教信仰や、私が個人的に「よい」と見なすキリスト教の在り方を規範として絶対視するとき、それはイエスの態度に逆らうものである危険性がある、と。
私たちは外部に、つまり神や他人に助けてもらいながら生きます。「信頼」とは自分でない他者への信頼です。私自身が留学先で、当地でいっしょに暮らす外国人に信頼して初めて、小さな子どもたちを含む家族を守ることができました。
そのとき、私たちが従来規範的と見なしてきたもの――日本人ならこうしてくれるのに/私が育った教会ではこうだったのに――は相対化されますが、神とイエスはそれをよしとされるでしょう。来る4月から、新しい主任牧師を迎えるこの共同体にとって、このことがよい示唆となるよう願っています。