I
クリスマスおめでとうございます。
私たちの世界では、何かを成し遂げることで他の人たちから認めてもらえ、自分も満足します。きちんと挨拶のできるよい子であるか。評判のよい学校に入り、よい成績をあげられたか。バイト先で褒められるか。魅力的だ、指導力があると人から言われるか。社会で立派な地位についたか。あるいは、ちゃんと貯金がたまったかなど。──人間とは、その人が自分を元手に生み出した価値と同じだけ尊い、という考え方です。
II
イエス・キリストはそのような世界に到来し、世界の始まりはそうではなかったと告げた存在です。
「初に言があった」とある「言」とはキリストのことです。神は、「言」であるイエス・キリストを通して、この世界と私たちを創造しましたが、世界はこのことをすっかり忘れています。なぜといって、私たちは神によって、キリストを通して作られた存在であるのに、私たちは自分で自分を作り出すものだとばかり思い込んでいるから。
それでも、この言は「人間を照らす光」として、今も暗闇の中で輝いているとあります。なぜ、自分のことにかかりっきりになっている人間に、光がなおも輝いていることが分かったのでしょうか? それは、ある人々が「光に照らされる」という経験をし、言であるキリストは「自分を受け入れた人には神の子となる資格を与えた」と信じたからだろうと思います。
この世界の、そして私たちの真の姿は、「光に照らされ」「神の子らとなる資格を受け取る」という経験を通して初めて開かれます。そのことを、ヨハネ福音書は「私たち」という一人称複数形で示唆します。すなわち「言は肉となって、わたしたちの間に宿った。私たちはその栄光を見た」。
キリストの生まれは決して高貴でなく、その生涯は決して華々しいものではなく、その死はむしろ十字架刑というたいへん悲惨なものでした。しかし、その姿に接した人々の中に、イエス・キリストに世界を創造した神の「栄光」を見てとった人たちがいました。「父(なる神)の独り子としての栄光」に他ならぬ輝きを。
III
考えてみれば私たちは、命を与えられて初めて、その命を使って自分の力を発揮することもできるようになります。もちろん、その力を自分を誇るために使うこともできますが、そうでないことのために使うこともできます。例えば先日アフガニスタンで銃撃を受けて亡くなったお医者さんの中村哲さんのように。
中村さんはアフガニスタンで医者として活動していましたが、戦争や干魃で田畑が壊滅的な被害を受けて砂漠のようになってゆく中で、人々が争い、水と食べ物を求めて村人たちが逃げまどい、戦争がちっとも収まらないのを見て、医術だけでは人を守ることができないと痛感したそうです。そこで井戸を掘り、運河を作り、水と農地をとりもどすことで平和をつくり出そうとしてきました。
運河ができる前の荒れ果てた大地と、運河が開通したあとの緑あふれる農地の映像を見たことがあります。そのとき私は、「まるでイエスさまの奇跡みたいだ」と思いました。
中村さんは、その志半ばで倒れたとはいえ、とっても立派なことをなしとげた人です。でも、なぜそんなに頑張れたのでしょうか。その理由のひとつは、彼にはアフガンの人たちから迎え入れてもらった経験があり、この土地の人たちが大好きだったからだろうと思います。大きな苦しみの中にあるこの国の「満ち溢れる豊かさ」を、彼は知っていたにちがいありません。
だからこそ、そこで暮らす小さな人々のために祈り、思いつく限りの最善の贈り物をすることで、今は互いに争い、奪い合っている人たちが、やがて本来の優しさをとりもどし、赦し合うことができるよう、そのための道備えに自分をささげることができたのではないでしょうか。
同じような意味で、キリストの内にある「満ち溢れる豊かさ」を受け取ることから、私たちがもう一度歩み始めることができれば、どんなにかすばらしかろうと思います。
IV
そのための手がかりになるかもしれない、晴佐久昌英(はれさく・まさひで)さんというカトリック司祭の方が書いた「クリスマスの夜は」という詩をご紹介します。
皆さんお一人おひとりに、メリークリスマス!